隼🇯🇵JAPAN

誰かの為に何かを残せればと思います。

台湾先住民からなる最強の「高砂義勇隊」

⚪️統治時代に台湾を近代化させた日本


日清戦争に勝利した日本は1895年、下関講和条約によって、清国より台湾の割譲を受けます。これによって台湾は日本の統治下に入りました。

歴史をひもとくと、台湾には古代から先住民が暮らしていましたが、1624年のオランダからの侵略を皮切りに、圧政と搾取の歴史が続いていました。

日本に割譲された当時、台湾は清朝政府から「中華文明の及ばない、風土病の地」と呼ばれ、見捨てられていました。衛生環境が悪く、伝染病が広がりやすい気候風土の中、多くの人が病気に命を奪われていたのです。

統治を始めた日本はすぐに衛生環境を整備し、風土病の撲滅に力を入れます。同時に巨額の資金を投じて教育や就労環境を整え、インフラ整備を行い、台湾を近代化させたのです。

大東亜戦争勃発後は、戦線の拡大とともに、1942年に施行された陸軍特別志願兵制度により、台湾人にも軍人の門戸が開かれます。

日本に恩義を感じていた台湾の青年たちは、志願を許されたことを最高の喜びと思ったといいます。「自分たちも日本兵として、内地の日本人と一緒に戦い、祖国を守るんだ!」と、応募が殺到。約1千人の募集に対し、40万人もの熱烈な志願がありました。

高い倍率の中から選ばれた青年たちは日本に渡り、軍の学校などで厳しい訓練を積み、軍人として各地に配属されていったのです。

 

⚪️日本軍最強とも呼ばれた台湾の先住民による高砂義勇隊

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台湾出身の日本兵の中でも、特に多大なる貢献をした「高砂義勇隊」と呼ばれる先住民志願兵たちがいます。

「高砂族」は、アミ族やタイヤル族など9つの台湾の先住民の総称です。彼らは主に山地や台湾東部に暮らすため、ジャングルでのサバイバル法を熟知していました。目や耳がよく、脚も強く、天才的な勘を持ち、一度見た山の形は忘れなかったといいます。

マレー・ポリネシアン系の言語も話すため、フィリピンやボルネオ、ニューギニアなどの南方戦線で、通訳としても活躍。彼らのおかげで、現地の部族と友好関係を結ぶこともできたのです。

先祖伝来の「蕃刀(ばんとう)」でジャングルを切り開き、果敢に敵に向かっていく彼らは、数々の戦線で大活躍します。彼らの働きに感謝し、尊敬する日本兵も多く、ニューギニアのブナにおける戦闘では、作戦を指揮した山本重省陸軍大佐が、高砂義勇隊の戦いぶりに感謝を込めた遺書を遺して玉砕しています。

 

⚪️義勇隊員が見せた大和魂 、今も台湾に息づく日本精神

日本軍最強とも呼ばれた高砂義勇隊ですが、ただ戦闘能力に優れていただけではありませんでした。

日本兵としての誇りを持ち、仲間思いで、使命に忠実だった彼らには、確かに大和魂が宿っていました。1943年の毎日新聞に、「ニューギニアからの便」として、福湯海軍報道班員が綴った記事からも、それを感じることができます。概要を以下に掲載します。

 

ニューギニアの戦場でカメラマンとともに道に迷った福湯氏は、4人の日本兵が駐屯しているテントに導かれます。食料不足で困っている兵隊たちに、福湯氏たちは持っていたおにぎりを差し出しました。

「おお、白い握り飯!」と、兵隊たちが宝物を拝むように口に運ぼうとした瞬間、その中の一人が急に立ち上がり、そばに建てられた粗末な墓に向かいます。そして墓前におにぎりを供え、「俺にはこの握り飯は食えない」と慟哭したのです。

別の兵隊が、この墓には高砂義勇隊員が眠っていると説明しました。食料のない日が何日も続き、その義勇隊員は、ずっと後方の兵站基地まで食料を取りに向かいました。ところが何日経っても戻らず、探したところ、彼は遺体で発見されました。50キロの米を担いだまま、ジャングルの中で飢え死にしていたのです。

 

話しながら、兵隊の眼には涙があふれていたと、福湯氏は記しています。

飢餓状態にありながら、背中の米には手をつけず、一刻も早く戦友に食料を運ぼうとする――。仲間を助けることは、日本を守ると言う大義につながると、その義勇隊員は悟っていたのでしょう。己の命を顧みないその働きは、大和魂そのものといえます。高砂義勇隊は、大東亜戦争において、紛れもなく「日本兵」だったのです。

当時の話を聞かれた、ある元高砂義勇隊員は、「心から日本を愛し、日本のために戦った。今も日本人の誇りを持ち続けている」と語っています。

台湾出身の元軍人や、日本統治時代を知る人たちは、戦後も「日本精神(リップンチェンシン)」を持ち続けているといいます。責任感や勤勉さ、公正さ、規律、愛国心など、戦前の日本人が持っていた高貴な精神のことを指すそうです。

日本の先人たちの誠実な生き方は、「日本精神」として、今も台湾に伝わっています。今こそ、脈々と受け継がれている日本人としての精神を、見つめ直すときかもしれません。

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「日本は侵略国家であったのか」 田母神 俊雄

「日本は侵略国家であったのか」
田母神 俊雄

 アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。

この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936 年の第2 次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937 年8 月15 日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ( 誰も知らなかった毛沢東)( ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け( 櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937 年7 月7 日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争( 岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。

我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932 年1 月には3 千万人の人口であったが、毎年100 万人以上も人口が増え続け、1945 年の終戦時には5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35 年間で1 千3 百万人の人口が2 千5 百万人と約2 倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。

我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924 年には朝鮮に京城帝国大学、1928 年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9 つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6 番目、台北帝国大学は7 番目に造られた。その後8 番目が1931 年の大阪帝国大学、9 番目が1939 年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校2 6 期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1 期後輩には金(キン)錫源(ソグォン)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1 千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1 期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオウキン)もいる。

李王朝の最後の殿下である李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校の2 9 期の卒業生である。李垠(イウン)殿下は日本に対する人質のような形で1 0 歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠(イウン)殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子(まさこ)妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠(イウン)殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930 年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(フギ)殿下の弟君である溥(フ)傑(ケツ)殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。

これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2 次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1 次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。

時間は遡るが、清国は1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ1901 年に我が国を含む11 カ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2 600 名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。また1915 年には袁世凱政府との4 ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21 箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4 年後の1919 年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編( 渡部昇一、祥社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901 年から置かれることになった北京の日本軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。

さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3 百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局( N S A )のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18 年5 月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940 年から1948 年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1 回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943 年から解読作業を開始した。そしてなんと37 年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980 年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995 年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933 年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3 百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2 の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100 機からなるフライイングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1 ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。

ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1 撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2, 第3 の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。

さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2 百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。

一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は6 0 年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実行支配が続いている。

東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63 年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は2 0 年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。

自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポーで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。

日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。

我は海の子

われは海の子 白浪の…。

「われは海の子」は、明治43(1910)年の尋常小学読本唱歌に掲載されて世に出ました。

作者不詳とされてきた名曲の作詞者が明らかになったのは、約80年後の平成元年です。

 

決め手となったのは、北欧文学者、宮原晃一郎の一人娘が保存していた手紙でした。宮原は文部省の詩の懸賞募集に、「海の子」と題した作品を応募していました。その入選通知が残っていました。

 

宮原の長女が所有していた『海の子』の入選通知書(上)と著作権譲渡依頼書(下)

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平成12年7月20日の「海の日」には、宮原の故郷、鹿児島市の海を望む公園に歌碑が建てられました。

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「年末の第九のように、海の日には日本中でこの歌が歌われるようになればいい」

除幕式では、こんな声が上がっていました。

歌碑には、3番までの歌詞が刻まれています。

海辺に生まれ、たくましく育つ少年が主人公です。

実は歌詞はまだ続きます。少年はやがて鍛え抜いた体を持つ青年となり、大海原にこぎ出していきます。終戦後、GHQの指導で文部省唱歌から追放されたのは、7番の歌詞が原因でした。

 

「いで大船を乗り出して われは拾わん海の富 いで軍艦に乗組みて われは護らん海の国」

 

この部分が、軍国主義を想起させるというのです。昭和33年から再び教科書に載るようになったものの、3番までしか歌われなくなりました。

久しぶりに全曲を聴いてみましたがやはり海洋国家、日本にふさわしい名曲でです。

日本近辺の海底には、豊富な資源が眠っていることがわかってきています。尖閣諸島周辺での領海侵犯を常態化させている中国の公船は、九州北部海域の領海にまで侵入を始めました。海の富、海の国を守る覚悟をいよいよ固める時です。

 

「われは海の子」を7番まですべて歌う時としたいです。

 

われは海の子

文部省唱歌、作詞:宮原晃一郎、作曲:不詳

1 われは海の子 白波の
  さわぐいそべの松原に
  煙たなびくとまやこそ
  わがなつかしき住みかなれ

2 生まれて潮にゆあみして
  波を子守の歌と聞き
  千里寄せくる海の気を
  吸いて童(わらべ)となりにけり

3 高く鼻つくいその香に
  不断の花のかおりあり
  なぎさの松に吹く風を
  いみじき楽(がく)とわれは聞く

4 丈余のろかいあやつりて
  ゆくて定めぬ波まくら
  ももひろちひろ海の底
  遊びなれたる庭広し

5 いくとせここにきたえたる
  鉄より堅きかいなあり
  吹く潮風に黒みたる
  はだは赤銅(しゃくどう)さながらに

6 波にただよう氷山も
  来たらば来たれ 恐れんや
  海巻きあぐる龍巻も
  起らば起れ おどろかじ

7 いで大船を乗り出して
  われは拾わん海の富
  いで 軍艦に乗り組みて
  われは護らん海の国

昭和天皇、最後の「終戦記念日」

昭和63年8月15日。昭和天皇が最後にお迎えになった終戦記念日。
当時、昭和天皇のお身体は深く癌に侵されていた。(但しご本人に告知はしていなかった)。
この年の8月は那須の御用邸で静養をされていた。
しかし、ご無理をされてヘリコプターで8月13日にご帰京。
終戦記念日当日には、進退ご不自由なお身体を押して、日本武道館での全国戦没者追悼式に臨まれた。
この時、侍医長だった高木顕氏の手記には以下のようにある。

 

「全国戦没者追悼式へのご出席は、本当に心配でした。果たして無事にお務めになられるだろうかという不安があったのです。陛下のお気持ちを忖度(そんたく)したりしてはおそれ多いかもしれませんが、陛下はこの戦没者追悼式はことのほか重要な行事とお考えではなかったかと思います」

(『昭和天皇最後の百十一日』)

 

侍従だった小林忍氏の日記には、万が一の場合に備え、侍従長が一緒に壇上に上がった様子が記されている。

 

「会場では侍従長が壇上の陛下の後方に席を設け、
おことばの際も近くまでお供(とも)し…お身体を万一のときに支えるためにもと陛下の前に卓を置いた」

(『昭和天皇 最後の侍従日記』)

 

そこまでして、昭和天皇は戦没者の霊を慰め、遺族を労(ねぎら)う為に、気力を振り絞って壇上に立たれたのだった。この時のお姿こそ、国民が拝した最後の昭和天皇のお姿だった。 

 

昭和天皇はこの日、次のような御製(ぎょせい)を詠(よ)んでおられる。

 

やすらけき
世を祈りしも
いまだならず
くやしくもあるか
きざしみゆれど

 

昭和天皇が即位されてまださほど歳月を経ていない
昭和6年の歌会始(うたかいはじめ)。

次の御製を詠んでおられた。

 

ふる雪に
こころきよめて
安らけき
世をこそいのれ
神のひろまへ

 

昭和天皇のご生涯は「安らけき世」へのひたすらな
「祈り」で貫かれていた。しかし、ご生涯で最後の終戦記念日に、深いお嘆きから「くやしくもあるか」と詠まれざるを得なかった事実は、余りにも悲しく、申し訳ない。

 

【高森明勅公式サイト】より
https://www.a-takamori.com/

元侍医が語る「昭和天皇 最期の日々」

1987(昭和62)年4月29日。誕生日の昼餐会中に嘔吐した昭和天皇。満86歳を迎えた天皇の体で起こっている異変に気付いていたのが、侍医の伊東貞三さん(87)だった。徳川家定の御典医を務めた伊東玄朴、明治天皇の侍医を務めた伊東方成を祖先にもち、昨年『昭和天皇 晩年の想い出』を上梓した伊東さんが、昭和天皇の姿を語った。

*  *  *

――昭和天皇が嘔吐したのは、伊東さんが侍医として天皇に仕えて4年目。

 宮中饗宴などを行う豊明殿で、誕生日の祝宴が開かれたときです。量は200ミリリットル。宮内庁は「公務の疲れと風邪のため」と発表しましたが、私たち侍医は、“ただ事ではない”と思いました。というのも、その前年から陛下の体重は毎月数百グラムずつ減少しており、また、誕生日の前の4月21日には便の潜血検査で陽性が出ていたからです。

 昭和天皇の健康管理を担う私たちの仕事の一つが、体重測定です。月初めの朝一番に、排尿後に量ります。測定には一般的な体重計ではなく、天秤に分銅をのせる質量秤を使い、その後、脱がれた下着の重さを量って差し引きます。前回より何グラム変化したかも含めて、結果は毛筆で書き記し、午後に陛下に提出します。

 陛下は食事の量だけでなく、日々飲まれるお茶の量も正確に測り、飲む時間も午前10時と午後3時と決めています。ですから、体重が毎月のように変動することはありません。月々の体重減少をみて、私は“これはおかしい”と感じました。

――その年の7月、天皇は那須の御用邸へ。そこではこんな苦労があった。

 陛下は、自身の体調について何もおっしゃいません。過去に一度、「お痛みですか?」と尋ねたことがありますが、陛下の返事は「痛いとはどういうことか」でした。

 那須で静養されていたときもそうです。食事が進まず、召し上がると嘔吐する日が続いていましたが、それでも「少し食べすぎたかな」と言われるくらい。拝診すると腹部膨満感があって、当時の私の日記には「胃にガスが貯留しているらしい、胃の幽門(胃と十二指腸をつなぐ部分)の狭窄ではないか。胃がんでなければよいが」と書いてあります。

 8月には1リットルもの量を吐かれ、散歩の帰りに倒れられたこともあります。そのときも症状について何もおっしゃいませんでした。

――那須から戻った後、天皇は宮内庁病院で開腹手術を受ける。きっかけは伊東さんの進言だった。

 侍従、侍医、女官が集まる機会があったので、その場で「陛下は胃の病気で、何とかしなければなりません」と医師としての意見を伝えました。精密検査を行うと、十二指腸が数センチにわたって、針の穴ぐらい細くなっていました。がんが原因であることは間違いなく、手術の必要性が明確になったのです。侍医長が進言すると、陛下はひと言「医者に任せる」と。陛下の手術がこれほどすんなり決まるとは思ってもいませんでした。

 手術に要した時間は3時間30分。術後15日目に退院され、その後1年間は侍医や看護師が交代で寝ずに介護にあたりました。

――88(昭和63)年、8月の全国戦没者追悼式に出席した翌月に天皇は大量に吐血。国内が「天皇陛下、ご重体」という報道で騒然となった。

 御座所に呼ばれて伺うと真っ赤な血を吐き、下血もされていました。震えながら始末をしていたら、陛下が「伊東、今日は満月だよ。その障子を開けてご覧、きれいだ」と言われました。まるで首から下は自分ではないような、そんな感じでした。床に伏せている陛下がなぜこの日が満月ということをご存じなのか。最近になって、仕奉人(つかまつりびと)さんが大きな鏡を持ってきて、月をお見せしていたことを知りました。

 陛下には病名を告知していません。現在の天皇陛下はどんなご病気も告知を受け、それを包み隠さず国民に公表されていますが、当時は違いました。それで侍医長と議論もしました。私は告知すべきと思い、「迷いのないお心であるから告知してもいいのではないか。ひと言この世に残しておかれたいお言葉があるのではないか」と伝えました。

 結局、陛下に病名が伝わることはなく、陛下からも問いはありませんでした。ただ、あれほどの症状がおありでしたから、病状は理解されていたと思います。

――同年大晦日。天皇の呼吸が止まる。その日の当直は伊東さんだった。

 以前からすでに意識はなく、輸液と輸血でコントロールされていました。陛下の呼吸が止まって「昭和64年は来ない」と思った、そのときです。看護師が陛下の胸をタンタンとたたくと、呼吸が戻ったのです。ちょうど昭和64年が明けたところでした。それから1週間、延命されました。

 1月7日午前2時。自宅で待機していた私に、呼び出しがかかりました。皇太子同妃両殿下(今上天皇と美智子皇后)、常陸宮両殿下、竹下登総理(当時)が見守るなか、心電図のモニターがツーッとまっすぐになりました。侍医長がまず陛下に頭を下げ、それから皇太子同妃両殿下に頭を下げました。「すべてが終わった、昭和が終わった」と思いました。

※週刊朝日 2016年4月29日号より抜粋

『伊勢神宮』新国家の為の神道利用

 一生に一度はお伊勢参り、江戸時代の庶民最大の楽しみが、伊勢神宮の参拝だった。天皇家の祖先とされる天照大御神と、豊穣(ほうじょう)をつかさどる豊受(とようけ)大御神を祭り、民の暮らしと縁が深い。
 もちろん信心だけではなく、御師(おんし)と呼ばれる旅行業兼宗教家の案内で、飲み食いを楽しみ、歓楽街で羽目をはずすことも。全国から詰めかけた参拝客をもてなすために、境内にも茶屋が立ち並び、大いににぎわった。
 明治2(1869)年3月、その伊勢神宮を明治天皇が訪れた。それまで天皇自身が参拝した例はなかった。神宮側は少年の天皇を最高神・天照大御神と同格に扱ったという。庶民とは異なり、参拝は厳かに執り行われた。
 1年前の慶応4(のちに改元し明治元)年3月、新政府は祭政一致と神祇官の再興を布告した。神祇官は古代、朝廷の祭祀を担当した役所だ。
 「王政復古、諸事御一新祭政一致の御制度に御回復」。天皇が政治主権と宗教の最高権威を併せ持っていた古代に立ち返り、さらには全国の神社を政府の下に置くとの宣言だ。天皇は神前で五箇条の御誓文を読み上げ、“神道国家”日本が幕を開けた。

 

明治3年1月に出された大教宣布の詔は「惟神の大道を宣揚すべき」と、神道に基づく理想の治政を語る。各地に宣教使が置かれ、「大教」と呼ぶ天皇崇拝の教義を説いて国民教化を推し進めた。
 神祇官には、天皇を守護する神々や歴代の皇霊などをまつる神殿を設置。国家が全神社の祭神を支配する形となった。一方で、宮中にあった歴代天皇の位牌(いはい)は、皇室の菩提(ぼだい)寺、泉涌寺(せんにゅうじ)(京都)などへ移された。
 神道国家を目指す政策が次々に実行された。明治4年、「上知」として社寺領が没収された。寺が打撃を受ける一方、神社には優遇措置がなされた。官社、県社など格付けが行われ、従来の寺請(てらうけ)制度に換えて神社による氏子調べも始まった。
 だが、急進的な神道国教化は国民の反発を招き、間もなく行き詰まった。太政官(だじょうかん)は神道の位置づけを「国家の宗祀(そうし)」とトーンダウンした。神祇官は格下げされ、明治5年には神仏合同の布教を行う教部省に置き換わった。

 

遠い昔、はるか天の彼方(かなた)に、神々が住む高天原があった。天照大神の孫ニニギノミコトは日向の高千穂峰に降り立つ。その曽孫は大和へ攻め上り、初代の神武天皇となった―。
 古事記や日本書紀に描かれた「天孫降臨」は南九州が舞台だ。鹿児島県にはニニギノミコト以下3代を葬ったという可愛(えの)山陵(薩摩川内市)、高屋山陵(霧島市)、吾平山上陵(鹿屋市)の「神代三陵」がある。三つの古墳は明治7年、宮崎、鹿児島の候補地から「治定」された。「文字通り政治的に定められたもの。新政府中枢の薩摩出身者の影響があったのでは」と中村明蔵・元鹿児島国際大学教授(83)=日本近代史=はみる。
 新政府は歴代天皇陵を次々と聖域化していった。大和の畝傍(うねび)山(奈良県橿原市)麓の古墳とされた神武天皇陵では、付近にあった集落が整備の過程で移転させられた。
 やがて天皇や功臣は神としてまつられる。神武天皇の橿原神宮、怨霊になったと恐れられた崇徳天皇の白峯神宮、南朝の功臣・楠木正成の湊川神社などがつくられた。
 連綿と続く「万世一系」の天皇家への崇敬は、国家神道として、昭和の敗戦まで日本人の思想に強い影響を与えた。
 伊勢神宮と庶民を結んでいた御師は、明治4年に廃止。にぎわいを見せていた境内から、民家や店がやがて取り払われ、神苑(しんえん)として広大な聖地に変わった。

『昭和天皇』A級戦犯メモ 富田メモの危うい『政治利用』

 

『週刊新潮』 '06年8月3日号

 

「A級が合祀されその上松岡、白取までもが、」「だから私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」。元宮内庁長官の富田朝彦氏が、昭和天皇のお言葉として書きつけたメモが波紋を広げている。

スクープを物にした「日経」は7月20日付朝刊トップで同メモを「A級戦犯靖国合祀」「昭和天皇が不快感」と大見出しで報じた。政界、メディア界には早くも、“A級戦犯”の分祀論が高まっている。だが、富田メモを分祀推進の政治的動きに直結させてよいのか。そもそも富田メモはどれだけ信頼出来るのか。

メモの書かれた88年4月28日当時、陛下のご体調が万全でなかったのは周知のとおりだ。前年の9月12日に大量に嘔吐され、22日には手術が行われた。慢性すい炎とされたがガンであった。それから半年後の88年4月25日、誕生日を前に臨まれた記者会見は15分間、例年の半分の時間に制限された。報道各社はすでに万一の場合に備えて“臨戦態勢”に入っていた。その後も思わしくないご病状が続き、翌年の1月7日、陛下は崩御された。

外交評論家の田久保忠衛氏は次のように語る。

「あの時期の昭和天皇が、10年も前のA級戦犯合祀について、果たして御自分の意図が正確に伝わるように御意見を述べられていたのかどうか、失礼ながら、私は疑問に思っています」

体調が優れないとき、人間は考えてもみなかった思い違いもする。だからこそ、私たちは、当時の陛下のお言葉をとりわけ慎重に吟味しなければならない。

一方、陛下のお言葉を、富田氏がどれだけ正確に書き残したのかも疑問だ。メモは断片的で、御発言のなかから、幾つかの言葉が富田氏のフィルターを通して不完全な形で書き残されたと言わざるを得ない。この点について、富田氏を知る田久保氏はこう語る。

「富田元長官は高潔な方ではあったでしょうが、本当に歴史を知っていたのか。たとえば白鳥(敏夫元駐伊大使)を『白取』と書いています。また『筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが』と、恰も筑波(藤麿)宮司が合祀を渋ったかのように書かれていますが、これは事実と異なります」

富田メモでは昭和天皇は「筑波は慎重に対処」とする一方で、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と」と語ったとされている。筑波宮司の慎重な判断はよかったが、後任の松平永芳宮司は「易々と」A級戦犯を合祀して怪しからんという口調だととれる。

だが、A級戦犯の合祀を決めたのは他ならぬ筑波宮司である。同宮司は昭和45年2月の崇敬者総代会で、A級戦犯合祀を決定し、同年9月の同会で「時期は宮司預かり」と決めたのだ。

「文藝春秋」8月号で、上坂冬子氏と対談した湯澤貞前宮司も「筑波宮司は何度かA級戦犯の合祀を(崇敬者総代会に)諮っています」と述べている。つまり、天皇のお言葉という形で示唆された、筑波宮司はA級戦犯合祀に反対というのは事実ではないのだ。

 

【次々と噴き出す“謎”】

 

そして重要なのは、“A級戦犯”も含めて誰を合祀するかの決断は、靖国神社ではなく、厚生省、つまり政府が行なうという点だ。

合祀の手続きは政府から靖国神社に、合祀すべき人々の名簿、祭神名票が送られるところから始まる。靖国神社は同名簿を基に、その年に合祀する人々の名簿を新たに作成する。一定の書式に則って奉書に墨で清書し、絹の表紙でとじる。これは上奏名簿と呼ばれ天皇に奉じられる。

“A級戦犯”の場合も、同じ形をとって、昭和53年10月7日に、天皇に報告された。合祀は10日後の10月17日に、18日には秋の例大祭が行なわれ、昭和天皇は勅使を派遣した。

にもかかわらず、昭和天皇が富田メモに見られるような思い違いをされたのはなぜか。

「昭和天皇にきちんとした情報が伝わっていなかったのか、伝わっていたにしても御体調が悪くて健全に判断出来なかったのか、或いは忘れてしまわれたのか。または、歴史に明るくない富田さんが事実と異なったことを書いてしまった可能性も考えられます」
と田久保氏は語る。

矛盾を含む富田メモを以て、「日経」は「A級戦犯靖国合祀」「昭和天皇が不快感」と見出しをつけた。が、この決めつけは疑問である。これまで“A級戦犯”といえば東条英機元首相の代名詞であるかのように報じられてきた。その東条元首相に対する昭和天皇の思いがあたたかいものであることは「昭和天皇独白録」(文藝春秋)の随所に散見される。

天皇は語っている。「元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る」「一生懸命仕事をやるし、平素云ってゐることも思慮周密で中ゝ良い処があった」と。東条の評判が芳しくないことについても「圧政家の様に評判が立ったのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝らなかったことと又憲兵を余りに使ひ過ぎた」所為だとして、言葉を尽くしてかばっている。

東条元首相の孫の由布子さんは、昭和天皇が靖国神社を参拝されなくなったあとも、宮中のお使いを東条家に派遣し「御心配の御伝言」をされていたと語る。

他方昭和天皇は、三国同盟を推進した松岡洋右については非常に厳しい。

「『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」、「一体松岡のやる事は不可解の事が多い」「彼は他人の立てた計畫には常に反対する、又条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持ってゐる」(前掲書)とまで語るのだ。

その意味で富田メモの「松岡、白取までもが」という部分に裏づけはある。しかし、松岡を疎んだことは事実としても、“A級戦犯が……”といって、東条元首相を含む人々を合祀した靖国神社参拝をやめることは昭和天皇の御性格からして考えにくい。

 

【歴史事実との矛盾】

 

日本が占領されたとき、昭和天皇はマッカーサーに、全責任は自分にありと言って、日本国と国民を守ろうとした。マッカーサーが重光葵外相に感動して伝えた天皇のお言葉は次のようなものだった。

「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにもまた事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題でない。構わず総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」

決して他人に責任転嫁されない姿勢に感動するのはひとりマッカーサーだけではないだろう。このような天皇を守り通したのが、“A級戦犯”とされた人々、就中、東条だった。

東条は極東軍事裁判で日本を犯罪国家として裁いたキーナン検事に、最初は「日本国の臣民(自分)が陛下のご意思に反してかれこれすることはありえぬことであります」と答えた。昭和天皇は「彼(東条)程朕の意見を直ちに実行したものはない」と語っているが、東条の証言はまさに真実そのものだっただろう。しかし、次の法廷で東条は「(天皇は)私の進言、統帥部その他責任者の進言によって、しぶしぶ(戦争に)ご同意になった」と述べて、証言を変えたのだ。

国際政治の専門家、京都大学教授の中西輝政氏は、

「東条、或いは広田弘毅外相のように天皇の身代わりになって処刑台に立った人々が靖国神社に祀られることに関して昭和天皇が抵抗感をお持ちなわけがありません。もし、お持ちなら、それは人の道に反します。東条も広田も平沼騏一郎も皆、開戦に反対でした。富田メモから“A級戦犯”全てについて天皇が不快に思っていたと結論づけるのは、したがって不完全な解釈だと思います」と語る。

昭和天皇がいかにこの国の基本を守ろうとしたかを知れば、部分的に公表された富田メモの中の片言隻語をひとり歩きさせることには、慎重でなければならない。

日大教授の百地章氏は、憲法も国際法も非常に重視し、立憲君主国日本の天皇として、憲法上の規定に忠実であろうとした天皇の考えにこそ想いを至すべきだと強調する。

「昭和天皇は立憲君主として御自分の個人的な発言や言動が政治を左右することのないよう、非常に注意しておられました。だからこそ、御自身は反対でしたが、開戦も裁可なさった。個人的な思いで政治を動かしてはならないと、そこまで御自分を律した方が、今回のメモの流出、その政治利用を御覧になればどれほど悲しまれ、憤ることでしょうか」

昭和天皇がお好きなテレビ番組や贔屓の力士についても明かさなかったのは余りにも有名なはなしだ。最後となった昭和63年のお誕生日の記者会見でも、大戦の原因を尋ねられ、人物批判につながるからと口を閉ざされた。

ただ天皇も人間である。これだけ公の発言を慎重にしていた方ではあるが、何年にもわたり身近に仕える人物に心を許してこもごも語るのは、自然なことだ。身近に仕える人々はそのようなお気持を受けとめ、それが外部に漏れないように守らなければならないはずだ。にもかかわらず、内側から情報が漏れた。

國學院大学教授の大原康男氏が、富田メモで“親の心子知らず”と批判されている松平宮司について語った。

「父の松平慶民さんも日記を残していました。息子に『自分の死後は焼却せよ』と言い残したのですが、日記には宮中のことだけでなく、家族のことも書かれていた。それで暫く手元に残していたのですが、晩年になって日記を焼却しました。それが普通の対処です。ところが入江相政侍従長のときから事情が変わりました。今回も、自分の書き残した情報をきちんとコントロールしていなかった富田さんの責任が問われます」

 

【昭和天皇の身の処し方】

 

天皇は公人であり、その言動についての情報は情報公開の対象となる。だが、どんな機密情報公開制度でも18年では機密は公開されない。中西教授は、富田メモの流出は驚くべき機密漏洩事件であり、日本という国家体制の余りの不備を表わしたものだと警告する。

今回のようなメモが流出するとなると、現皇族の方々は、およそ誰にも心が許せない状況となる。個人情報の保護といって民間では同窓会名簿も作りにくくなっているのに較べ、公人とはいえ、天皇家の人々の情報を守る手立ては余りに脆弱である。富田メモは公私の別も、守るべき情報の選別も考えずに公開された。政治的動機を疑われても弁明は出来ないだろう。

公開されたメモが、たとえ、天皇の真意を伝えているとしても、それによって政治を左右することは厳に慎まなければならない。私たちは天皇の政治利用ですでにとりかえしのつかない失敗をしてきた。92年、尖閣諸島までも自国領だと主張し始めた中国に天皇皇后両陛下の御訪問を実現させたことだ。いま、富田メモを以てA級戦犯分祀を主張する人々の多くは、当時、天皇御訪中で日中関係は未来永劫安定すると説いた。だが、御訪中は中国に利用されたにすぎないことが、いまになれば明らかだ。同じような人々がA級戦犯分祀というが、天皇の政治利用は二度としてはならないのだ。

富田メモによって、天皇の権威や人柄は究極的に貶められかねない。そのような事態をさけるために、私たちは昭和天皇が87年の生涯を通じて、非常に大きな辛い犠牲を経ても守り通そうとした立憲君主としての身の処し方、その精神を想起し、賢く対処しなければならない。それは片言隻句の文言によって判断するのではなく、天皇が国民の前に示した事実に基づいて判断することだ。特定の人物を疎まれているとしても、それを以て、天皇がA級戦犯合祀の靖国神社に不快感をもつのは道理に合わないことを正面から受けとめるのだ。結論は明らかだ。首相は今年、靖国神社にきちんと参拝すべきである。他のいかなる道も、天皇の政治利用と中国への故なき屈服につながることを忘れてはならない。