隼🇯🇵JAPAN

誰かの為に何かを残せればと思います。

北方領土は日本固有の領土です

1.北方領土とは何か?

1945年(昭和20年)、日本が、ポツダム宣言を受諾し降伏する意図を明らかにしたあとになって、ソ連は、一度も外国の領土になったことのない我が国の固有の領土である北方四島に侵攻しました。その後、ソ連は一方的にソ連領に「編入」し、全ての日本人を強制退去させました。ソ連が崩壊してロシアとなった現在も、ロシアは北方四島を法的根拠なく占拠し続けています。

 

(1)「北方領土」とはどの島々のことか?

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北方領土は、北海道本島の北東洋上に連なる歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島の島々です。

 

(2)何故、「北方領土は日本固有の領土である」といえるのか?

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江戸幕府の時代、1799年から1800年にかけて北方領土のほか、千島、樺太を含む蝦夷地を直轄地として日本人が開拓しました。1855年には日本とロシアとの間で平和的・友好的な形で日魯通好条約が調印され、その条約は、それまでに自然に成立していた択捉島とウルップ島との間の国境を、そのまま確認しました。

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樺太千島交換条約:1875年(明治8年)、我が国は「千島列島」(シュムシュ島からウルップ島までの18の島々)をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄することを決定しました。この結果、千島列島全島が日本の領土になりました。

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日露戦争の結果、1905年(明治38年)、ポーツマス条約により、樺太の北緯50度より南の部分が日本の領土となりました。
1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦しました。第二次世界大戦直後、日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から9月5日の間に北方四島のすべてを占領しました。当時、四島にはソ連人は一人もおらず、日本人は四島全体で約1万7千人が住んでいましたが、ソ連は1946年に四島を一方的に自国領に「編入」し、1948年までにすべての日本人を強制退去させました。

※サンフランシスコ平和条約(1951年)で、日本は南樺太と、千島列島を放棄しましたが、この条約にいう「千島列島」には北方領土は含まれていません。ソ連はこの条約に署名せず、条約の当事国となっていません。

 

🇯🇵以上、日本国内閣府HPより引用🇯🇵

 

 

 

 

 

竹島は日本固有の領土10のポイント

🔴 POINT1

「日本は古くから竹島の存在を 認識していました」

✴️日本が古くから竹島を認識していたことは 各種の地図や文献から確認できる


現在の竹島は、我が国ではかつて「松島」と呼ばれ、逆に鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました【図 1】。

竹島や鬱陵島の名称については、ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより一時的な混乱があったものの、我が国が「竹島」と「松島」の存在を古くから承知していたことは各種の地図や文献からも確認できます。

例えば、経緯線を投影した刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779 年初版)のほか、鬱陵島と竹島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に 記載している地図は多数存在します。

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✴️ヨーロッパの探検家の測量誤りなどにより 一時的に鬱陵島の名称に混乱が生じる

1787 年、フランスの航海家ラ・ペルーズが鬱陵 島に至り、これを「ダジュレー(Dagelet)島」と 命名しました。

続いて、1789 年には、イギリスの 探検家コルネットも鬱陵島を「発見」しましたが、 彼はこの島を「アルゴノート(Argonaut)島」と 名付けました。

しかし、ラ・ペルーズとコルネットが測定した鬱陵島の経緯度にはズレがあったことから、その後に ヨーロッパで作成された地図には、鬱陵島があたかも別の 2 島であるかのように記載されることとなり ました【図 2】。


長崎出島の医師シーボルトは、欧州で「日本図」 (1840 年)を刊行しました。

彼は、隠岐島と朝 鮮半島の間には西から「竹島」(鬱陵島の江戸時代の呼称)、「松島」(現在の竹島の江戸時代の呼称) という 2 つの島があることを日本の諸文献や地図に より知っていました。

その一方、ヨーロッパの地図 には、西から「アルゴノート島」「ダジュレー島」と いう 2 つの名称が並んでいることも知っていました。 このため、彼の地図では「アルゴノート島」が「タカシマ」、「ダジュレー島」が「マツシマ」と記載さ れることになりました【図 2】。

これにより、それま で一貫して「竹島」又は「磯竹島」と呼ばれてき た鬱陵島が、「松島」とも呼ばれる混乱を招くこととなりました。 

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✴️1905 年に現在の竹島を正式に 「竹島」と命名する

このように、我が国内では、古来の「竹島」、「松 島」に関する知識と、その後に欧米から伝えられた 島名が混在していましたが、その最中に「松島」を 望見したとする日本人が、同島の開拓を政府に願い 出ました。

政府は、島名の関係を明らかにするため 1880(明治 13)年に現地調査を行い、同請願で「松島」と称されている島が鬱陵島であることを確認しました。

以上の経緯を踏まえ、鬱陵島は「松島」と称されることとなったため、現在の竹島の名称をいかにするかが問題となりました。

このため、政府は島根県の意見も聴取しつつ1905(明治 38)年、これまでの名称を入れ替える形で現在の竹島を正式に「竹島」と命名しました。

*日本が現在の竹島や鬱陵島を古くから正確に 認識していたことは、各種の地図や文献からもわかります。

19 世紀後半に、鬱陵島が「松島」とも呼ばれるようになって、 一時、混乱が生じたことから、1905 年に現在の竹島を「竹島」 と正式に命名しました。

 

🔴POINT2

「韓国が古くから竹島を認識していた という主張には根拠はありません」

✴️韓国は韓国側の古文献、古地図に書かれて いる「于山島」が現在の「竹島」と主張

例えば、韓国側は、朝鮮の古文献『三国史記』 (1145 年)、『世宗実録地理誌』(1454 年)、『新増東国輿地勝覧』(1531 年)、『東国文献備考』(1770年)、『萬機要覧』(1808 年)、『増補文献備考』(1908年)などの記述をもとに、「鬱陵島」と「于山島」という 2 つの島を古くから認知していたのであり、その 「于山島」こそ、現在の竹島であると主張しています。

 

✴️「于山島」には竹が生えていて多数の人が 住んでいたと記述されている。


しかし、『三国史記』には、于山国であった鬱陵島が 512 年に新羅に帰属したとの記述はありますが、
「于山島」に関する記述はありません。

また、朝鮮の他の古文献中にある「于山島」の記述には、その島には多数の人々が住み、大きな竹を産する等、 竹島の実状に見合わないものがあり、むしろ、鬱陵島を想起させるものとなっています。

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✴️安龍福という人物の信憑性の低い供述を基にした文献

また、韓国側は、『東国文献備考』、『増補文献備考』、『萬機要覧』に『輿地志』を引用して、「于
山島は日本のいう松島である」と記述されており于 山島が独島(竹島の韓国名)であることが明確だと 主張しています。

これに対し、『輿地志』の本来の 記述は、于山島と鬱陵島を同一の島としており、『東国文献備考』等の記述は『輿地志』から直接、正 しく引用されたものではないと批判する研究もありま す。

その研究は、『東国文献備考』等の記述は、安龍福という人物の信憑性の低い供述を無批判に取り入れた別の文献(『彊界考』、1756 年)を基にしていると指摘しています。


✴️地図上の位置や大きさがおかしい 「于山島」は存在しない島


なお、『新増東国輿地勝覧』に添付された地図 には、鬱陵島と「于山島」が別個の 2 つの島とし て描かれていますが、もし、韓国側が主張するよう に「于山島」が竹島を示すのであれば、この島は、 鬱陵島の東方に、鬱陵島よりもはるかに小さな島として描かれるはずです。

しかし、この地図における「于山島」は、鬱陵島とほぼ同じ大きさで描かれ、さらには朝鮮半島と鬱陵島の間(鬱陵島の西側)に位 置している等、全く実在しない島であることがわかります。

 

🔴POINT3

「日本は17世紀半ばには竹島の領有権を確立しました」

 

✴️江戸時代の初期から幕府公認の下、 漁師達に利用されていた竹島


1618 年、鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、 村川市兵衛は、同藩主を通じて幕府から鬱陵島(当時の日本名「竹島」)への渡海免許を受けました。

これ以降、両家は交替で毎年1回鬱陵島に渡海し、あわびの採取、あしかの捕獲、樹木の伐採等に従 事しました。

両家は、将軍家の葵の紋を打ち出した船印をたてて鬱陵島で漁猟に従事し、採取したあわびについては将軍家等に献上するのを常としており、いわば同島の独占的経営を幕府公認で行っていました。

この間、隠岐から鬱陵島への道筋にある竹島は、 航行の目標として、途中の船がかり(停泊地)として、 また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになりました。

こうして、我が国は、遅くとも江戸時代初期にあた る17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました。なお、当時、幕府が鬱陵島や竹島を外国領であ ると認識していたのであれば、鎖国令を発して日本人の海外への渡航を禁止した1635 年には、これ らの島に対する渡海を禁じていたはずですが、その ような措置はなされませんでした。

竹島渡海由来記抜書(渡海免許)⬇️

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🔴POINT4

「日本は 17 世紀末、鬱陵島への渡海を禁止する 一方、竹島への渡海は禁止しませんでした」

✴️鬱陵島の帰属をめぐり、幕府と 朝鮮王朝との間で意見が対立

幕府から鬱陵島への渡海を認められた米子の大谷・村川両家は、約70年にわたり、他から妨げられることなく独占的に事業を行っていました。

1692年、村川家が鬱陵島におもむくと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているの に遭遇しました。

また、翌年には、今度は大谷家が同じく多数の朝鮮人と遭遇したことから、安龍福( ア ン ・ ヨ ン ボ ク )、 朴 於 屯 ( パ ク ・ オ ド ゥ ン ) の 2 名を日本に連れ帰ることとしました。

なお、この頃の朝鮮王朝は、同国民の鬱陵島への渡海を禁じ ていました。
状況を承知した幕府の命を受け、対馬藩は、安と朴の両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、 同国漁民の鬱陵島への渡海禁制を要求する交渉を 開始しました。

しかし、この交渉は、鬱陵島の帰属 をめぐって意見が対立し合意を得るにいたりませんでした。

 

✴️朝鮮王朝との友好を考慮して鬱陵島への 渡海を禁止するも、竹島への渡海は禁止せず

対馬藩から交渉決裂の報告を受けた幕府は、 1696 年 1 月、「鬱陵島には我が国の人間が定住し ているわけでもなく、同島までの距離は朝鮮から近く伯耆からは遠い。無用の小島をめぐって隣国との好を失うのは得策ではない。鬱陵島を日本領にしたわけではないので、ただ渡海を禁じればよい」と朝鮮との友好関係を尊重して、日本人の鬱陵島への渡海を禁止することを決定し鳥取藩に指示するとともに、朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じました。

この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に 「竹島一件」と称されています。

その一方で、竹島への渡海は禁止されませんでた。

このことからも、当時から、我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかです。

鬱陵島渡海禁止老中奉書⬇️

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🔴POINT5

「韓国側は安龍福という人物の事実に反する供述を 領有権の根拠の 1 つとして引用しています」

 

✴️韓国が根拠とする安龍福の供述と その疑問点


幕府が鬱陵島への渡海を禁じる決定をした後、 安龍福は再び我が国に渡来しました。

この後、追放され朝鮮に戻った安龍福は、鬱陵島への渡海の禁制を犯した者として朝鮮の役人に取調べを受けま すが、この際の安の供述は、現在の韓国による竹 島の領有権の主張の根拠の 1 つとして引用されることになります。

韓国側の文献によれば、安龍福は、1693 年に日本に来た際、鬱陵島及び竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得たものの、対馬の藩主がその書契を奪い取ったと供述したとされています。

しかし、安龍福が 1693 年に日本に連れ帰られ 送還されたことを契機として日本と朝鮮国との間で鬱陵島出漁をめぐる交渉が始まったので、1693 年の渡日時に幕府が鬱陵島と竹島を朝鮮領とする旨の書契を与えるわけはなく、実際にそうした事実はあ りません。

さらに、韓国側の文献によれ ば、 安龍福 は、 1696 年の来日の際に鬱陵島に多数の日本人がいた旨述べたとされています。

しかし、この来日は、 幕府が鬱陵島への渡海を禁じる決定をした後のことであり、当時、大谷・村川両家はいずれも同島に 渡海していませんでした。
安龍福に関する韓国側文献の記述は、同人が 1696 年に、国禁を犯して国外に渡航し、その帰国後に取調べを受けた際の供述によったものです。 その供述には、上記に限らず事実に見合わないもの が数多く見られます。

韓国側はこうした事実に反する供述を竹島の領有権の根拠の 1 つとして引用して います。

安龍福の供述は、国のきまりを犯して国外に渡航し、 その帰国後に取調べを受けたときのもので、事実と合致しないものが数多くあります。

 

🔴POINT6

「日本は1905 年、閣議決定により竹島を領有する意思を再確認しました」

✴️日本の領土であることをしっかりと再確認

 

今日の竹島において、あしかの捕獲が本格的に行
われるようになったのは、1900年代初期のことでし
た。

しかし、間もなくあしか猟は過当競争の状態となたことから、島根県隠岐島民の中井養三郎は、その事業の安定を図るため、1904(明治 37)年 9 月、内務・外務・農商務三大臣に対して「りやんこ島」の領土編入及び 10 年間の貸し下げを願い出ました。

中井の出願を受けた政府は、島根県の意見を聴取の上、竹島を隠岐島庁の所管として差し支えないこと、「竹島」の名称が適当であることを確認しまし た。

これをもって、1905(明治 38)年 1 月、閣議決定によって同島を「隠岐島司ノ所管」と定める とともに、「竹島」と命名し、この旨を内務大臣から島根県知事に伝えました。

この閣議決定により、 我が国は竹島を領有する意思を再確認しました。

島根県知事は、この閣議決定及び内務大臣の訓 令に基づき、1905(明治 38)年 2 月、竹島が「竹 島」と命名され隠岐島司の所管となった旨を告示す るとともに、隠岐島庁に対してもこれを伝えました。

なお、このことは当時の新聞にも掲載され広く一般に伝えられました。

また、島根県知事は、竹島が「島根県所属隠岐島司ノ所管」と定められたことを受け、竹島を官有地台帳に登録するとともに、あしかの捕獲を許可制 としました。あしかの捕獲は、その後、1941(昭和16)年まで続けられました。

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🔴POINT7

「サンフランシスコ平和条約起草時、韓国は、日本が放棄すべき 地域に竹島を加えるよう米国に要請しましたが、拒否されました」

✴️1951 年に韓国は米国へ竹島の領有権を 求める書簡を提出

 

1951(昭和 26)年 9 月に署名されたサンフラ ンシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を 規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済 州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しま した。
この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年 7 月、梁(ヤン)駐米韓国大使 からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。

その内容は、「我が政府は、第 2 条 a 項の『放棄 する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、 巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本に よる朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945 年 8 月9 日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。

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✴️米国は韓国の領有権主張を明確に否定


この韓国側の意見書に対し、米国は、同年 8 月、 ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡を もって次のとおり回答し、韓国側の主張を明確に否 定しました。

「合衆国政府は、1945 年 8 月 9 日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に 対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ない しリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905 年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。

この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなさ れたとは見られない。・・・」


これらのやり取りを踏まえれば、サンフランシスコ 平和条約において竹島は我が国の領土であるという ことが肯定されていることは明らかです。


なお、1954 年に韓国を訪問したヴァン・フリー ト大使の帰国報告にも、竹島は日本の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した島々には含まれていないというのが米国の結 論であると記されています。

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🔴POINT8

✴️第二次世界大戦後の国際秩序の中で竹島が 日本の領土として認められていたさらなる事実


我が国がいまだ占領下にあった1951(昭和 26)年 7月、連合国総司令部は、連合国総司令 部覚(SCAPIN)第 2160 号をもって、竹島を 米軍の爆撃訓練区域として指定しました。

サンフランシスコ平和条約発効直後の 1952(昭和 27)年 7 月、米軍が引き続き竹島を訓練区域として使用することを希望したことを受け、日米行政協定に基づき、同協定の実施に関する日米間の協議機関として設立された 合同委員会は、在日米軍の使用する爆撃訓練区域 の 1 つとして竹島を指定するとともに、外務省はその旨を告示しました。

しかし、竹島周辺海域におけるあしかの捕獲、あわびやわかめの採取を望む地元からの強い要請があること、また、米軍も同年冬から竹島の爆撃訓練区域としての使用を中止していたことから、1953(昭和28年)3月の合同委員会において、同島を爆撃訓練区域から削除することが決定されました。

日米行政協定によれば、合同委員会は「日本国内の施設又は区域を決定する協議機関として任務 を行う」とされていました。

したがって、竹島が合同委員会で協議され、かつ在日米軍の使用する区域として決定したことは、とりも直さず竹島が日 本の領土であることを示しています。

アメリカとしても日本の領土と認めているからこそ、米軍の爆撃訓練区域として使いたいとの要請をしました。

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🔴POINT9

「韓国は国際法に反して公海上にいわゆる「李承晩ライン」を引き、一方的に竹島を不法占拠しました」

✴️国際法を無視して一方的に設定された 「李承晩ライン」


1952(昭和 27)年 1 月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行って、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定し、同ラインの内側 の広大な水域への漁業管轄権を一方的に主張する とともに、そのライン内に竹島を取り込みました。


1953(昭和28)年 3 月、日米合同委員会で竹島の在日米軍の爆撃訓練区域からの解除が決定されました。

これにより、竹島での漁業が再び行われることとなりましたが、韓国人も竹島やその周辺で 漁業に従事していることが確認されました。

同年7月には、不法漁業に従事している韓国漁民に対し竹島から退去するよう要求した海上保安庁巡視船が、 韓国漁民を援護していた韓国官憲によって銃撃されるという事件も発生しました。

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✴️竹島に韓国の警備隊が常駐し 不法占拠状態が続く

 

翌1954(昭和 29)年 6 月、韓国内務部は韓国沿岸警備隊の駐留部隊を竹島に派遣したことを発表ました。同年 8 月には、竹島周辺を航行中の海上 保安庁巡視船が同島から銃撃され、これにより韓国の 警備隊が竹島に駐留していることが確認されました。
韓国側は、現在も引き続き警備隊員を常駐させるとともに、宿舎や監視所、灯台、接岸施設等を構
築しています。 「李承晩ライン」の設定は、公海上における違法な線引きであるとともに、韓国による竹島の占拠は、 国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠 です。

韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するも のではありません。

このような行為は、竹島の領有権をめぐる我が国の立場に照らして決して容認でき るものではなく、竹島をめぐり韓国側が何らかの措 置等を行うたびに厳重な抗議を重ねるとともに、その撤回を求めてきています。

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🔴POINT10

「日本は韓国に対し国際司法裁判所(ICJ)への 付託を提案していますが、韓国は拒否しています」

✴️国際法に則った平和的解決を目指して


我が国は、韓国による「李承晩ライン」の設定以降、韓国側が行う竹島の領有権の主張、漁業従事、巡視船に対する射撃、構築物の設置等につき、 その都度厳しく抗議してきました。


そうした中、我が国は、竹島問題の平和的手段 による解決を図るため、1954(昭和 29)年 9 月、 口上書をもって竹島の領有権に関する紛争を国際 司法裁判所(ICJ)に付託することを韓国に提案しましたが、同年 10 月、韓国はこの提案を拒否しました。(注1)

1962(昭和 37)年 3 月の日韓外 相会談の際にも、小坂善太郎外務大臣(当時)か ら崔徳新韓国外務部長官(当時)に対し、本件を ICJ に付託することを提案しました。

しかし、韓国 はこれを受け入れませんでした。

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🇯🇵以上、外務省 竹島は日本固有の領土10のポイントより引用🇯🇵

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尖閣諸島は日本固有の領土です。

尖閣諸島は歴史的にも国際法上も明らかに日本固有の領土であり、かつ、実効支配していることから、解決すべき領有権の問題はそもそも存在しません。

日本が尖閣諸島に対して領有権を有することは間違いありません。

日本は中国に対して主張と反論を繰り返すとともに、国際社会に対してそのことを積極的に発信していく必要があります。

それと同時に、尖閣に対する実効支配を強化していく事が急務です。

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✴️尖閣諸島が日本固有の領土である物的証拠✴️

 

「ロンドン・アトラス」(英1887年発行)と「ハンド・アトラス」(独1875年版)には尖閣諸島の西側に領土・領海の境界を示す点線が引かれています。

いずれも台湾との間に国境線が引かれ、明治28年に領土編入する以前から欧州では尖閣諸島が日本領であると認識していました。

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日本は、尖閣諸島が無人島であるのみならず、他国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で、1895(明治28)年1月に閣議決定を行って沖縄県に編入しました。

久場島、魚釣島の沖縄県への所轄編入の閣議決定文面(1895年1月14日付)⬇️

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中国で1958年に出版された世界地図集には琉球群島の範囲内に「魚釣島」と「尖閣群島」が記されています。

世界地図集には中国が主張している釣魚島の表現はどこにも見当たらないし尖閣群島が鮮明に印刷してあります。

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1965年10月に台湾の国防研究院と中国地理学研究所から聨合出版した世界地図の第一冊「東アジアの諸国」では、尖閣諸島は日本領土と明記し、しかも日本の名前「尖閣群島」と書いてあります。

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尖閣諸島の魚釣島、久場島、大正島、南小島、北小島には1969年当時の市長が自ら上陸し、市の行政区域であることを示す標柱を設置しました。

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尖閣諸島、竹島、北方領土は日本固有の領土です

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✴️「尖閣諸島は日本の固有の領土です」✴️


日本は、尖閣諸島が無人島であるのみならず、他国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で、1895(明治28)年1月に閣議決定を行って沖縄県に編入しました。これは、国際法上、正当に領有権を取得するためのやり方に合致しています。
その後、日本の民間人が日本政府の許可の下、尖閣諸島に移住し、鰹節工場や羽毛の採集などの事業を展開しました。
なお、福建省の漁民が尖閣諸島の魚釣島近海で遭難した際には、日本人が救助を行い、1920年5月に当時の中華民国駐長崎領事から「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と記載された感謝状が発出されました。
第二次世界大戦の前は、最盛期には200人以上の住人が尖閣諸島で暮らし、税徴収も行われていました。また、現在においても、警備・取締りや国有地としての管理等が適切に行われています。

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【魚釣島鰹節工場】
(写真提供:那覇市歴史博物館)

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【かつての居住者】
(写真提供:那覇市歴史博物館)

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【中華民国駐長崎領事の感謝状】

 

✴️「竹島は日本の固有の領土です」✴️


各種の地図や文献から、日本では、竹島について古くからその存在を認識していたことがわかります。17世紀初めには、日本の町人は幕府の許可を得て、鬱陵島(うつりょうとう)に渡る際、竹島を航路の目印として、またアシカなどの漁獲地として利用していました。遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していたと考えられます。
さらに、1900年代初期、島根県の島民から、アシカ猟事業の安定を図る声が高まり、政府は、1905(明治38)年1月、閣議決定で竹島を島根県に編入し、同年2月22日、島根県知事は、この旨を告示しました。

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【1905(明治38)年閣議決定】
(写真提供:アジア歴史資料センター

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【竹島におけるアシカ猟の様子】
(写真提供:島根県竹島資料室)

 

✴️「北方領土は日本固有の領土です」✴️

 

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羅臼国後展望塔から望む国後島(奥に見えるのが国後島です)

羅臼町から北方領土の一つである国後島までは約25kmしか離れておらず、天気の良い日は眼下に国後島を望むことができますが、今もなおロシアに不法占領されています。

日本の領土であるのも関わらず、自由に行くこともできない、北方領土は本当に「近くにあって遠い島」です。

北方領土は、日本国民が父祖伝来の地として受け継がれてきたもので、いまだかつて一度も外国の領土となったことがない日本の固有の領土です。

1855年の日魯通行条約により、当時、択捉島とウルップ島の間に自然に形成されていた国境線が法的に画定され、北方四島は日本の領土として平和裏に確定しました。

しかし、第二次世界大戦末期の1945年8月9日、ソ連邦は、当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して対日参戦し、8月14日に我が国がポツダム宣言を受諾し降伏の意図を明確に表明した後、8月28日から9月5日までの間に四島のすべてを不法に占領してしまいました。

当時、これらの島々には約1万7千人余りの日本人が暮らしていましたが、1949年までに日本人島民全員がソ連により強制的に退去させられました。それ以降北方領土には日本人は住んでいません。

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※昭和22年当時の強制送還されたときの様子(写真:千島連盟提供)

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保守チーム「真撰組」を立ち上げました。

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我々は未来を担う子供たちの為に行動し国へ思いを伝えなければならぬとの思いで 真撰組 を立ち上げました。

一燈照隅万燈照国(いっとうしょうぐうばんとうしょうこう)と言う言葉が有ります。

一燈照隅万燈照国とは一つの灯火だけでは隅しか照らせないが、その灯火が万という数になると国中を照らすことができるという意味です。

一人の声では届かない国への思いも会員が共に手を取り合い発言、発信すれば国にも通じる事案が多々あるかとの思いで活動しています。

只今、会員20名程の小さな団体ですが、真海会長(@maumi515 )のもと、来年までには会員200名を目指しています。

真撰組のチーム名は真海会長の名の下に、真海が選んだ組と言う意味合いがあります。

真海会長は以前、以心伝心倶楽部と言う保守チームの役員兼責任者でしたが諸々の事情によりこの度、真撰組を結成しました。

以心伝心倶楽部はSNSで保守連合の一員です。

真撰組も会員が50名程になれば保守連合への連立を考えています。

何も難しい事をするつもりはありません。

仲間と共に国を護る発言、行動をするだけです。

勉強会なども定期的に行っています。

皆さまも私たちと草莽の民となって日本国を護りませんか。

草莽の民とは口舌の徒ではなく、日本の為に具体的に何らかの行動を起こそうとする「草莽崛起」の志と覚悟を持つ人々の事です。

是非我々と共に声を上げて日本を護りましょう!

 

以下役員による一言コメントを掲載します⬇️

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真海 会長(@maumi515)コメント⬇️

 

我々は、つい先日まで以心伝心倶楽部のメンバーとしてツイデモ等を行ってきました。

その以心伝心倶楽部内の部屋もメンバーが増える毎に遊び場となり、これではダメだと…。

僕について来てくれたメンバー数名で『真撰組』を立ち上げました。

僕は、日本の領土問題にずっと取り組んできたつもりです。

日本の領土問題を解決するには法改正が必要。

その法改正をやるにも媚中派議員や左派の世論が反対をし、なかなか思う様に進まないのが現実ですよね…。

それなら、まず、チームとして声を上げていける数を集めてないといけない。

僕はTwitterは数だと思ってます。

一人で声を上げても、所詮は戯言に終わります。

チームとして、数を集め、声を上げる!

これが、今、僕の思っている所です。

 

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副会長 Zak(@zaku_fzkai )のコメント⬇️

 

初心者の方、歓迎いたします☺️

特別な知識は不要👍

定期的な勉強会を開いておりますので、皆で学んでいきましょう❗️

 

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役員 ひよどり(@CtIknAxl1TiIgKb )のコメント⬇️

 

今を生きる私達は先人から受け継いできた大切な日本の心と気概を次世代そして子々孫々に継承する使命と責任があります。


我が国の再建に資する活動を行う事を目的として
真海会長(@maumi515)のもと#真撰組を結成致しました。


我々は本来の日本を取り戻す為に活動します。


只今、会員募集中❤️

 

 

🇯🇵以上日本の皆さま、何卒宜しくお願い致します🇯🇵

台湾先住民からなる最強の「高砂義勇隊」

⚪️統治時代に台湾を近代化させた日本


日清戦争に勝利した日本は1895年、下関講和条約によって、清国より台湾の割譲を受けます。これによって台湾は日本の統治下に入りました。

歴史をひもとくと、台湾には古代から先住民が暮らしていましたが、1624年のオランダからの侵略を皮切りに、圧政と搾取の歴史が続いていました。

日本に割譲された当時、台湾は清朝政府から「中華文明の及ばない、風土病の地」と呼ばれ、見捨てられていました。衛生環境が悪く、伝染病が広がりやすい気候風土の中、多くの人が病気に命を奪われていたのです。

統治を始めた日本はすぐに衛生環境を整備し、風土病の撲滅に力を入れます。同時に巨額の資金を投じて教育や就労環境を整え、インフラ整備を行い、台湾を近代化させたのです。

大東亜戦争勃発後は、戦線の拡大とともに、1942年に施行された陸軍特別志願兵制度により、台湾人にも軍人の門戸が開かれます。

日本に恩義を感じていた台湾の青年たちは、志願を許されたことを最高の喜びと思ったといいます。「自分たちも日本兵として、内地の日本人と一緒に戦い、祖国を守るんだ!」と、応募が殺到。約1千人の募集に対し、40万人もの熱烈な志願がありました。

高い倍率の中から選ばれた青年たちは日本に渡り、軍の学校などで厳しい訓練を積み、軍人として各地に配属されていったのです。

 

⚪️日本軍最強とも呼ばれた台湾の先住民による高砂義勇隊

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台湾出身の日本兵の中でも、特に多大なる貢献をした「高砂義勇隊」と呼ばれる先住民志願兵たちがいます。

「高砂族」は、アミ族やタイヤル族など9つの台湾の先住民の総称です。彼らは主に山地や台湾東部に暮らすため、ジャングルでのサバイバル法を熟知していました。目や耳がよく、脚も強く、天才的な勘を持ち、一度見た山の形は忘れなかったといいます。

マレー・ポリネシアン系の言語も話すため、フィリピンやボルネオ、ニューギニアなどの南方戦線で、通訳としても活躍。彼らのおかげで、現地の部族と友好関係を結ぶこともできたのです。

先祖伝来の「蕃刀(ばんとう)」でジャングルを切り開き、果敢に敵に向かっていく彼らは、数々の戦線で大活躍します。彼らの働きに感謝し、尊敬する日本兵も多く、ニューギニアのブナにおける戦闘では、作戦を指揮した山本重省陸軍大佐が、高砂義勇隊の戦いぶりに感謝を込めた遺書を遺して玉砕しています。

 

⚪️義勇隊員が見せた大和魂 、今も台湾に息づく日本精神

日本軍最強とも呼ばれた高砂義勇隊ですが、ただ戦闘能力に優れていただけではありませんでした。

日本兵としての誇りを持ち、仲間思いで、使命に忠実だった彼らには、確かに大和魂が宿っていました。1943年の毎日新聞に、「ニューギニアからの便」として、福湯海軍報道班員が綴った記事からも、それを感じることができます。概要を以下に掲載します。

 

ニューギニアの戦場でカメラマンとともに道に迷った福湯氏は、4人の日本兵が駐屯しているテントに導かれます。食料不足で困っている兵隊たちに、福湯氏たちは持っていたおにぎりを差し出しました。

「おお、白い握り飯!」と、兵隊たちが宝物を拝むように口に運ぼうとした瞬間、その中の一人が急に立ち上がり、そばに建てられた粗末な墓に向かいます。そして墓前におにぎりを供え、「俺にはこの握り飯は食えない」と慟哭したのです。

別の兵隊が、この墓には高砂義勇隊員が眠っていると説明しました。食料のない日が何日も続き、その義勇隊員は、ずっと後方の兵站基地まで食料を取りに向かいました。ところが何日経っても戻らず、探したところ、彼は遺体で発見されました。50キロの米を担いだまま、ジャングルの中で飢え死にしていたのです。

 

話しながら、兵隊の眼には涙があふれていたと、福湯氏は記しています。

飢餓状態にありながら、背中の米には手をつけず、一刻も早く戦友に食料を運ぼうとする――。仲間を助けることは、日本を守ると言う大義につながると、その義勇隊員は悟っていたのでしょう。己の命を顧みないその働きは、大和魂そのものといえます。高砂義勇隊は、大東亜戦争において、紛れもなく「日本兵」だったのです。

当時の話を聞かれた、ある元高砂義勇隊員は、「心から日本を愛し、日本のために戦った。今も日本人の誇りを持ち続けている」と語っています。

台湾出身の元軍人や、日本統治時代を知る人たちは、戦後も「日本精神(リップンチェンシン)」を持ち続けているといいます。責任感や勤勉さ、公正さ、規律、愛国心など、戦前の日本人が持っていた高貴な精神のことを指すそうです。

日本の先人たちの誠実な生き方は、「日本精神」として、今も台湾に伝わっています。今こそ、脈々と受け継がれている日本人としての精神を、見つめ直すときかもしれません。

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「日本は侵略国家であったのか」 田母神 俊雄

「日本は侵略国家であったのか」
田母神 俊雄

 アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。

この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936 年の第2 次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937 年8 月15 日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ( 誰も知らなかった毛沢東)( ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け( 櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937 年7 月7 日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争( 岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。

我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932 年1 月には3 千万人の人口であったが、毎年100 万人以上も人口が増え続け、1945 年の終戦時には5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35 年間で1 千3 百万人の人口が2 千5 百万人と約2 倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。

我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924 年には朝鮮に京城帝国大学、1928 年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9 つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6 番目、台北帝国大学は7 番目に造られた。その後8 番目が1931 年の大阪帝国大学、9 番目が1939 年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校2 6 期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1 期後輩には金(キン)錫源(ソグォン)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1 千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1 期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオウキン)もいる。

李王朝の最後の殿下である李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校の2 9 期の卒業生である。李垠(イウン)殿下は日本に対する人質のような形で1 0 歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠(イウン)殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子(まさこ)妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠(イウン)殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930 年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(フギ)殿下の弟君である溥(フ)傑(ケツ)殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。

これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2 次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1 次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。

時間は遡るが、清国は1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ1901 年に我が国を含む11 カ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2 600 名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。また1915 年には袁世凱政府との4 ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21 箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4 年後の1919 年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編( 渡部昇一、祥社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901 年から置かれることになった北京の日本軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。

さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3 百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局( N S A )のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18 年5 月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940 年から1948 年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1 回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943 年から解読作業を開始した。そしてなんと37 年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980 年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995 年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933 年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3 百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2 の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100 機からなるフライイングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1 ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。

ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1 撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2, 第3 の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。

さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2 百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。

一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は6 0 年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実行支配が続いている。

東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63 年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は2 0 年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。

自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポーで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。

日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。