【隼】🇯🇵JAPAN🇯🇵 hatenablog

誰かの為に何かを残せればと思います。

英霊の言乃葉


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短い爪と髪を送ります

陸軍伍長 上田 穂積 命
昭和二十年一月十五日
ルソン島にて戦死
熊本県天草町出身 二十二歳
                   
 自分達の船は十一月十五日五島沖で敵潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。私は二十四時間漂流していたところ夏 初義さん小崎英雄さんに助けられてフィリピンへ上陸しました。
 自分がもし戦死した場合は父母は、この二人に対して御恩返しをして下さい。また昭和十九年十一月十五日五島沖に没せられた多くの勇士の皆様にも、父母は忘れないで十五日には五島の方に向かって冥福を祈って下さい。
 フィリピンに着いてまだ永くもならないので、爪も髪も短いですが、戦死の時はそれで葬儀を済まして下さい。
 戦はいよいよ、熾烈を極めて来ました。
 銃後も大変でしょうが、どうか御両親様にはお体を大切にお暮らし下さいませ。
   昭和十九年十一月 日
                                   穂 積
 御両親様

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遺 言 書
陸軍曹長 菊池 武雄 命
昭和二十年八月十二日
比島マニラにて戦死
岩手県稗貫郡湯本村出身 二十五歳
     

             
 お母さん さらば。
 私も愈々国家の為、お役に立つ時が来ました。私は入営の際、既に身は大君に捧げしものとして入営した私であります。男と生まれ一世一代の死場所を求めることが出来、こんな嬉しい愉快なことはありません。
 私は喜んで死んで行きます。
 ただ、私の亡きあとは一家挙って幸福に暮らし行く事、私は草葉の蔭から祈って居ります。
 それから私が来る前に植付けて来た、柿の木を大切に育てて下さい、あとは何も言う事はありません。
 白木の箱が届いたら、どうか泣かずに、褒めて下さい。
   遺言書  昭和十九年五月十八日午後四時
   
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戦地より愛児へ
陸軍伍長 角 光男 命
昭和二十年三月十七日
硫黄島で戦死
熊本県宇土市石之瀬小路出身 三十三歳
     

            
 はいけい、あけみ、けいこさん、おしょうがつはすぐですね。
おてがみたしかにうけとりました。
 そのご、みんなげんきでなによりとよろこんでおります。
 おとうさんも、まいにちげんきで、みくにのためにはたらいております。
 かきもたくさんなったそうですね。そしてあかくうれたかきをおとうさんにそなえたそうですね。ひじょうにおいしかったですよ。
 けいこさん、けいこさんもことしは、ようちえんで、らいねんの四月はこくみんがっこうの一年生ですね。うれしいでしょう。
 あけみ、けいこさん!! おぢいさん、おばあさん、おかあちゃんによろしく。
 またおたよりまっております。   さようなら
   昭和十九年十二月十七日
                                   角 光男
    あけみ
  角     様
    けいこ
    
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 最後の手紙 何か宗教の本を送って下さい
 陸軍少尉 瀬田 万之助 命
 昭和二十年三月七日 比島クラークにて戦病死
 東京外国語学校
 三重県四日市市北町出身 二十一歳
                 
 この手紙、明日内地へ飛行機で連絡する同僚に託します。
 無事お手許に届くことを念じつつ、筆を執ります。
 目下戦線は膠着状態にありますが、何時大きな変化があるかもしれません。それだけに何か不気味なものが漂っています。
 生死の境を彷徨していると、学生の頃から無神論者であった自分が、今更の様に悔やまれます。死後、どうなるか? といった不安よりも、現在、心のよりどころのない寂しさといったものでしょうね。その点信仰厚かった御両親様の気持が判るような気がします。
 何か宗教の本をお送り願えれば幸甚です。───
 マニラ湾の夕焼けは見事なものです。こうしてぼんやりと黄昏時の海を眺めていますと、どうしてわれわれは憎しみ合い、矛を交えなくてはならないかと、そぞろ懐疑的な気持になります。───
 兄上、姉上、そして和歌子ちゃんにくれぐれもよろしく。
 早々不一
 昭和二十年三月五日