【隼】🇯🇵JAPAN🇯🇵 hatenablog

誰かの為に何かを残せればと思います。

三島由紀夫が泣いた先人の遺書

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三島由紀夫は自決に先立つ、一か月前の昭和45年10月広島県江田島にある海上自衛隊第一術科学校の教育参考館を訪れています。

全国から寄せられた戦没者の遺書の中から手に取った一通の遺書を読み終えた三島は声を出して泣いたそうです。

それは昭和20年5月神雷部隊として特攻出撃し、南西諸島方面で散華した古谷眞二少佐の残した遺書でした。

三島由紀夫はこの遺書を読んで

「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない。」

と言って号泣したそうです。

命がけのその遺書は戦後日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になる三島由紀夫をもかなわなかったそうです。

そして三島由紀夫は昭和45年11月25日、東京市ヶ谷駐屯地で自決します。

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三島は長靴を脱いで上着のボタンを外し、ズボンを押し下げて、床に坐った。鋭い短刀を腹に刺し込み、右へ向けて横一文字に引いた。名誉ある介錯人に選ばれた森田は、主人の背後に立ち、刀を振り上げて、三島の首を打ち落とす瞬間を待った。内臓が床の上に溢れ出、三島の体は前方か後方のどちらかに傾いた。森田は二太刀打ち下ろしたがうまく切れず、目的は果たせなかった。彼より大柄な隊員の一人が軍刀をもぎ取り、力をこめて正確に振り下ろした。三太刀目かに首は離れた。あるいは「押し斬り」にしたのかも知れない。ついで森田は、血まみれの三島の胴体の脇にひざまずき、三島が使った短刀を取って自分の腹を刺したが、切り口は浅く、筋肉と脂肪の層を切り裂くまでには至らなかった。これも切腹の一つの儀式であった。手練の一太刀で、彼の首も落ちた。後に残った三人の会員は、このとき涙を流していたが、総監の縄を解き、胴体と首をきちんと並べて深々と頭を垂れたのち、警官や警務隊におとなしく取り押えられた。。。。

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僕らの父や祖父が守り抜いたもの。。。

僕らが今の世に生きている事の意味を本気で考えなければならぬ時だと思います。

ではその遺書を下記に紹介します。

―――――――記―――――――

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古谷眞二
東京都出身

慶応大学卒海軍第十三期飛行科予備学生
第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊
昭和20年5月11日南西諸島洋上にて戦死 23歳

 

「遺書」
皇国の一男子として生を享けて以来二十有余年、国を挙げての聖戦に勇躍征く事を得ば男子の本懐、正に之に過ぐるものなし。

ものごころついて以来自分乍ら世才に長ぜりと感じ、幼友矢島君の男々しき武人姿を見るにつけ所詮 身は軍人となれぬとは思ひ諦め居たるも、長じて茲に征途につくを得ば身を鴻毛の軽きにおき勇みて征かんの心激しからざるはなし。
過去二十何年かの間、陰に陽に愛しまれたる御両親の恩、甚だ深くして浅学非才なる小生にしては御礼の言葉も見当らず。その深遠広大なるに対し、深く深く厚く厚く御礼申し上ぐるものなり。
御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀傷せずして無事帰還の誉を擔はんこと、朝な夕なに神佛に懇願すべくは之親子の情にして当然也。
不肖自分としても亦、身を安んじ健康に留意し、目出度く帰還の後孝養を盡したきは念願なれども蓋し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状にあり。
大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干戈を執らんの覚悟なり。

幸ひ弟妹多く兄としてのつとめを果たせざるを遺憾とは思ひつゝも願はくは之等弟妹に父母の孝養を依頼したき心切なり。
死すること強ち(あながち)忠義とは考へざるも自分は死を賭して征く。必ず死ぬの覚悟で征く。
萬事頼む。

眞二

十八年六月十日
箱根小涌谷にてしたゝむ 

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古谷 眞二 少佐(ふるや しんじ)

1922年2月24日 ~1945年5月11日
大日本帝国海軍軍人
1922年2月24日に東京都で生まれる。
慶應義塾大学経済学部に入学するが、大東亜戦争の戦況拡大により、6ヶ月早い1943年9月に繰り上げ卒業となる。
卒業後、海軍航空隊へ志願し、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。一式陸上攻撃隊に搭乗して飛行訓練を受ける。
訓練を受けた後は、1944年10月1日に編成された第721海軍航空隊に配属となり、海軍中尉に任官。
1945年に菊水六号作戦が始まると、第8神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊指揮官として、同年5月11日に鹿屋飛行場から一式陸上攻撃機の派生形である4発陸上攻撃機「連山 (航空機)」に搭乗して南西諸島へ向かう。

「最期の血の一滴まで戦うのだ!」

と部下に命じ、自らは米国敵艦二艦に特攻・散華、二艦とも撃沈するという多大なる戦功を挙げた。