【隼】🇯🇵JAPAN🇯🇵 hatenablog

誰かの為に何かを残せればと思います。

三島由紀夫が涙した遺書

f:id:ryuzoji358:20230918124707j:image

古谷眞二少佐写真(飛行服姿、鈴鹿航空隊にて)

 

靖國神社遊就館知覧特攻平和会館など、各地にある戦争関連資料館で先人たちの遺書を目にする事が出来ますが、ここでは1通の遺書を紹介します。昭和20年5月11日、第八神風桜花特別攻撃隊「神雷部隊攻撃隊」隊員として出撃し、南西諸島洋上で戦死した古谷眞ニ少佐のものです。

f:id:ryuzoji358:20230918122617j:image

ノーベル文学賞候補に挙げられるまで高く評価された作家・三島由紀夫は、昭和45年11月25日に市ヶ谷自衛隊駐屯地で決起を促し自決する1ヶ月前、広島江田島海上自衛隊第1術科学校教育参考館で、古谷少佐の遺書を読みました。そして「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない」と言って声を出して泣きました。

以下、「世界の三島」が涙した古谷少佐の遺書全文です。

f:id:ryuzoji358:20230918121448j:image

 皇国の一男子として生を享けて以来二十有余年、国を挙げての聖戦に勇躍征く事を得ば、男子の本懐、正に之に過ぐるものなし。ものごころついて以来自分乍(なが)ら世才に長ぜりと感じ、幼友矢島君の男々しき武人姿を見るにつけ所詮身は軍人となれぬとは思ひ諦め居たるも、長じて茲(ここ)に征途につくを得ば、身を鴻毛(こうもう)の軽きにおき、勇みて征かんの心激しからざるはなし。

 過去二十何年かの間、陰に陽に愛しまれたる御両親の恩、甚だ深くして、浅学非才なる小生にしては御礼の言葉も見当らず。その深遠広大なるに対し深く深く厚く厚く御礼申し上ぐるものなり。

 御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより、身体を毀傷(きしょう)せずして、無事帰還の誉(ほまれ)を担はんこと、朝な夕なに神仏に懇願すべくは、これ親子の情にして当然也。不肖自分としても亦(また)、身を安んじ健康に留意し、目出度く帰還の後、孝養を尽くしたきは念願なれども、蓋(けだ)し時局は総てを超越せる如く、重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状にあり。

 大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ、正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干戈を執らんの覚悟なり。幸ひ弟妹多く兄としてのつとめを果たせざるを遺憾とは思ひつつも、願はくはこれ等弟妹に父母の孝養を依頼したき心切なり。

 死すること、強(あなが)ち忠義とは考へざるも、自分は死を賭して征く。必ず死ぬの覚悟で征く。

萬事頼む。     

眞二
十八年六月十日

箱根小涌谷にてしたたむ 

 

「死ぬことが必ずしも忠義とは考えないが、死ぬ覚悟で征く」という言葉には、大義に酔うのではなく冷静に自分を客観視した上で、命をなげうつという死を超越した心境がうかがえます。そして、最後の「萬(万)事頼む」の4文字にどれだけの想いが込められているのでしょうか。世界的な評価を受けている作家に「かなわない」とまで言わせた遺書は、当時の人々の命そのものの発露とも言うべき凄みが感じられます。現在、古谷少佐の遺書は靖國神社遊就館に所蔵されています。

f:id:ryuzoji358:20230918124941j:image

【古谷眞二少佐経歴】
1922年2月24日 ~1945年5月11日
大日本帝国海軍軍人
1922年2月24日に東京都で生まれる。
慶應義塾大学経済学部に入学するが、大東亜戦争の戦況拡大により、6ヶ月早い1943年9月に繰り上げ卒業となる。

卒業後、海軍航空隊へ志願し、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。一式陸上攻撃隊に搭乗して飛行訓練を受ける。

訓練を受けた後は、1944年10月1日に編成された第721海軍航空隊に配属となり、海軍中尉に任官。

1945年に菊水六号作戦が始まると、第8神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊指揮官として、同年5月11日に鹿屋飛行場から一式陸上攻撃機の派生形である4発陸上攻撃機「連山 (航空機)」に搭乗して南西諸島へ向かう。

「最期の血の一滴まで戦うのだ!」

と部下に命じ、自らは米国敵艦二艦に特攻・散華、二艦とも撃沈するという多大なる戦功を挙げた。

享年23歳。

戦死後、二階級特進で少佐となった。墓所池上本門寺