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誰かの為に何かを残せればと思います。

肥後石工が作った肥後の石橋

熊本県は日本で有数の眼鏡橋の宝庫で、全国の96パーセントが九州に分布し、その約半数が熊本にあります。

その理由は種山石工と呼ばれる眼鏡橋の技術集団が熊本にあったからです。そのふるさとは、かつての種山村(現在の八代市東陽町)です。

種山石工の始祖は、藤原林七といいます。

長崎奉行所勤めの折に円周率をひそかに学んだ彼は、刀を捨て百姓姿に身を変えて長崎をはなれ、肥後の種山村に移り住み、百姓林七は、息子たちに持てる知識と技術をすべて教え込みました。彼らが手がけた仕事は、東京の旧二重橋日本橋をはじめ、鹿児島では甲突川五大石橋など30余りで膝元の熊本では霊台橋(れいたいきょう)や通潤橋(つうじゅんきょう)をはじめ、無数の眼鏡橋を完成させました。

代表的な熊本の石橋を幾つか紹介します。

⚪霊台橋(れいだいきょう)

美里町

緑川をまたぐ全長115.5メートルの巨大な石橋で、単一アーチ橋としては日本最大のものです。種山石工・卯助らによって工事は弘化2年(1845)に始まり、1年後には完成しました。いかに種山石工の技術が高いものであったかが伺われます。昭和50年代まで国道橋として使われていたほど、霊台橋は強固な橋でした。国指定重要文化財です。

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通潤橋(つうじゅんきょう)
山都町

矢部地方の総庄屋布田保之助(ふたやすのすけ)が事業主となって企画実現した土木工事の集大成です。水不足の白糸台地へ灌漑用水を供給しようと6km離れた笹原川から取水した用水は、白糸台地目前の谷に架設された通潤橋上の三本の石管を通り、150年経った現在も118haの水田を潤しています。
工事は石工頭の宇市をはじめ種山や各地の石工衆41名が集まり、1年8か月の長期にわたり水路や橋を築造しました。
橋の上の石管内に溜まる土砂を掃除するための放水が豪快で観光客に好評です。国指定重要文化財

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⚪八勢目鑑橋(やせめがねばし)
御船町    

熊本と宮崎を結ぶ歴史街道・日向往還(ひゅうがおうかん)に架けられた小さな付随橋を持つ複合形の目鑑橋です。「八勢の谷渡り」と呼ばれた難所で、木倉手永(現在の御船町)の豪商・林田能寛が私財を投げ打って僅か4か月という短期間で竣工しました。昭和59年熊本県指定重要文化財に指定。幅4.35メートル、長さ56メートル。

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⚪雄亀滝橋(おけだきばし)
美里町

熊本県内で最も古い水路橋で、岩永三五郎が6年かけて文化14年(1817)に完成させたもの。実に通潤橋より40年以上も前のことです。当時土地の人から「当惑谷」と呼ばれていた難所に水の通る橋が果した役割は計り知れないほどだったでしょう。長さ15.5メートル

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⚪永山橋(ながやまばし)
菊池市

菊池川水系を代表する石橋が永山橋は、明治11年(1878)の完成。現在は通る車も訪れる人も少ないのですが、菊池渓谷の入口にあって、そのどっしりとした姿は見事なものです。

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⚪明八橋(めいはちばし)
熊本市

明治政府に招かれて東京で多くの仕事を手がけた丈八の帰郷後の作品、名前は明治8年完成のため。この橋は丈八が文明開花を予見して作ったもので、橋の幅も広く、通行帯もフラットになっています。現在も市のメインストリートの一部として活躍しています。

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船場橋(せんばばし)
宇土市

宇土市中心部の船場川に架かる単一アーチの眼鏡橋です。幅3.7メートル、長さが15メートルあり、手すりの石がほんのり赤いのが眼をひきます。この橋は昔は土橋だったのですが、幕末のころ宇土市網津産の馬門石によって架け替えられました。橋の両側には大きな石で築かれた石垣や石段があり、その昔の船場川沿いのにぎわいがしのばれます。

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🔴以上は熊本県のHP等をお借りしました。