美濃街道は東海道宮宿(熱田)▶️中山道垂井宿間14里余を名古屋→清洲→稲葉(稲沢)→萩原→起(一宮)→墨俣(岐阜)→大垣(岐阜県)と七つの宿場で結んでいる。
東海道が宮宿より海路七里の渡し、佐屋路は木曽川河口三里の渡しと渡船に頼らねばならなかったが、美濃路はそれらより二里遠回りになるものの、全行程陸路のため天候に左右される事もなく、参勤交代の西国大名を始め将軍上洛、朝鮮通信使、琉球王使など多くの人々が利用した。
幕府はそのため美濃路を五街道に次ぐ重要脇往還とし、元禄4(1691)年いち早く道中奉行の管理下に置き宿場、一里塚などを整備した。
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一里塚周辺の建物等を撮った。
〇稲葉の町並み
稲沢市の旧稲葉宿は「尾張志」によると慶長5年(1600)とあるが、「地方古義」では清洲宿の設定が同7年(1602)、再整備を元和2年(1616)とするので、この前後と推定されている。
寛文末年頃(1672)頃の「寛文覚書」によれば、尾張藩領 清洲代官支配で稲葉村の家数は122軒・人数727人で、文政5年(1822)の「徇行記」によると、家数259軒・人数1,003人であった。
美濃路は東海道の宮宿から分かれて北西に向かい、名古屋宿・清須宿・稲葉宿・萩原宿・起宿・墨俣宿・大垣宿・垂井宿で中山道と合流する、約60kmの脇往還道路であったが、東海道と中山道を結ぶ街道のため、主要街道なみの通行者があったようだ。
それが為とは思わないが、明治に開通した東海道線も東京から名古屋までは東海道に沿い、名古屋からは美濃路・中山道に沿って京都に入っている。
稲葉宿は稲葉・小沢両村で宿駅業務を行う合宿で、宿内の町並みは8町21間あり、清須宿へ一里半、萩原宿へ一里半であった。
本陣は一軒で小沢村に、脇本陣も一軒で稲葉村東町にあり、旅籠は7軒あった。稲葉村は東町・中町・西町の3区に分かれていた。
享保16年(1731)に六斎市が認可され、朝鮮通信使通行には仮御茶屋をも建てられた。
今町並みには県道も国道も通っておらず、昔のままの古い町並みが残った。
切り妻造りの平入り、中2階建・2階建ての商家の建物が連なり、虫籠窓も備わった重厚な建物の町並みは落ち着いた佇まいであった。
多くの家では、一階の格子をガラス窓に、中2階の虫籠窓もガラス窓に改装されてはいるが、伝統的な商家の建物の雰囲気は十分に残っていた。
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⚪国府宮神社
⚪一里塚看板
⚪中部電力稲沢営業所跡
⚪稲葉街並み
⚪多分、元の紡績工場
⚪石田三成 先祖代々の碑
⚪綺麗だったら撮った(自宅のなんかの木)
以上