一生に一度はお伊勢参り、江戸時代の庶民最大の楽しみが、伊勢神宮の参拝だった。天皇家の祖先とされる天照大御神と、豊穣(ほうじょう)をつかさどる豊受(とようけ)大御神を祭り、民の暮らしと縁が深い。
もちろん信心だけではなく、御師(おんし)と呼ばれる旅行業兼宗教家の案内で、飲み食いを楽しみ、歓楽街で羽目をはずすことも。全国から詰めかけた参拝客をもてなすために、境内にも茶屋が立ち並び、大いににぎわった。
明治2(1869)年3月、その伊勢神宮を明治天皇が訪れた。それまで天皇自身が参拝した例はなかった。神宮側は少年の天皇を最高神・天照大御神と同格に扱ったという。庶民とは異なり、参拝は厳かに執り行われた。
1年前の慶応4(のちに改元し明治元)年3月、新政府は祭政一致と神祇官の再興を布告した。神祇官は古代、朝廷の祭祀を担当した役所だ。
「王政復古、諸事御一新祭政一致の御制度に御回復」。天皇が政治主権と宗教の最高権威を併せ持っていた古代に立ち返り、さらには全国の神社を政府の下に置くとの宣言だ。天皇は神前で五箇条の御誓文を読み上げ、“神道国家”日本が幕を開けた。
明治3年1月に出された大教宣布の詔は「惟神の大道を宣揚すべき」と、神道に基づく理想の治政を語る。各地に宣教使が置かれ、「大教」と呼ぶ天皇崇拝の教義を説いて国民教化を推し進めた。
神祇官には、天皇を守護する神々や歴代の皇霊などをまつる神殿を設置。国家が全神社の祭神を支配する形となった。一方で、宮中にあった歴代天皇の位牌(いはい)は、皇室の菩提(ぼだい)寺、泉涌寺(せんにゅうじ)(京都)などへ移された。
神道国家を目指す政策が次々に実行された。明治4年、「上知」として社寺領が没収された。寺が打撃を受ける一方、神社には優遇措置がなされた。官社、県社など格付けが行われ、従来の寺請(てらうけ)制度に換えて神社による氏子調べも始まった。
だが、急進的な神道国教化は国民の反発を招き、間もなく行き詰まった。太政官(だじょうかん)は神道の位置づけを「国家の宗祀(そうし)」とトーンダウンした。神祇官は格下げされ、明治5年には神仏合同の布教を行う教部省に置き換わった。
遠い昔、はるか天の彼方(かなた)に、神々が住む高天原があった。天照大神の孫ニニギノミコトは日向の高千穂峰に降り立つ。その曽孫は大和へ攻め上り、初代の神武天皇となった―。
古事記や日本書紀に描かれた「天孫降臨」は南九州が舞台だ。鹿児島県にはニニギノミコト以下3代を葬ったという可愛(えの)山陵(薩摩川内市)、高屋山陵(霧島市)、吾平山上陵(鹿屋市)の「神代三陵」がある。三つの古墳は明治7年、宮崎、鹿児島の候補地から「治定」された。「文字通り政治的に定められたもの。新政府中枢の薩摩出身者の影響があったのでは」と中村明蔵・元鹿児島国際大学教授(83)=日本近代史=はみる。
新政府は歴代天皇陵を次々と聖域化していった。大和の畝傍(うねび)山(奈良県橿原市)麓の古墳とされた神武天皇陵では、付近にあった集落が整備の過程で移転させられた。
やがて天皇や功臣は神としてまつられる。神武天皇の橿原神宮、怨霊になったと恐れられた崇徳天皇の白峯神宮、南朝の功臣・楠木正成の湊川神社などがつくられた。
連綿と続く「万世一系」の天皇家への崇敬は、国家神道として、昭和の敗戦まで日本人の思想に強い影響を与えた。
伊勢神宮と庶民を結んでいた御師は、明治4年に廃止。にぎわいを見せていた境内から、民家や店がやがて取り払われ、神苑(しんえん)として広大な聖地に変わった。