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誰かの為に何かを残せればと思います。

元侍医が語る「昭和天皇 最期の日々」

1987(昭和62)年4月29日。誕生日の昼餐会中に嘔吐した昭和天皇。満86歳を迎えた天皇の体で起こっている異変に気付いていたのが、侍医の伊東貞三さん(87)だった。徳川家定御典医を務めた伊東玄朴、明治天皇の侍医を務めた伊東方成を祖先にもち、昨年『昭和天皇 晩年の想い出』を上梓した伊東さんが、昭和天皇の姿を語った。

*  *  *

――昭和天皇が嘔吐したのは、伊東さんが侍医として天皇に仕えて4年目。

 宮中饗宴などを行う豊明殿で、誕生日の祝宴が開かれたときです。量は200ミリリットル。宮内庁は「公務の疲れと風邪のため」と発表しましたが、私たち侍医は、“ただ事ではない”と思いました。というのも、その前年から陛下の体重は毎月数百グラムずつ減少しており、また、誕生日の前の4月21日には便の潜血検査で陽性が出ていたからです。

 昭和天皇の健康管理を担う私たちの仕事の一つが、体重測定です。月初めの朝一番に、排尿後に量ります。測定には一般的な体重計ではなく、天秤に分銅をのせる質量秤を使い、その後、脱がれた下着の重さを量って差し引きます。前回より何グラム変化したかも含めて、結果は毛筆で書き記し、午後に陛下に提出します。

 陛下は食事の量だけでなく、日々飲まれるお茶の量も正確に測り、飲む時間も午前10時と午後3時と決めています。ですから、体重が毎月のように変動することはありません。月々の体重減少をみて、私は“これはおかしい”と感じました。

――その年の7月、天皇那須御用邸へ。そこではこんな苦労があった。

 陛下は、自身の体調について何もおっしゃいません。過去に一度、「お痛みですか?」と尋ねたことがありますが、陛下の返事は「痛いとはどういうことか」でした。

 那須で静養されていたときもそうです。食事が進まず、召し上がると嘔吐する日が続いていましたが、それでも「少し食べすぎたかな」と言われるくらい。拝診すると腹部膨満感があって、当時の私の日記には「胃にガスが貯留しているらしい、胃の幽門(胃と十二指腸をつなぐ部分)の狭窄ではないか。胃がんでなければよいが」と書いてあります。

 8月には1リットルもの量を吐かれ、散歩の帰りに倒れられたこともあります。そのときも症状について何もおっしゃいませんでした。

――那須から戻った後、天皇宮内庁病院で開腹手術を受ける。きっかけは伊東さんの進言だった。

 侍従、侍医、女官が集まる機会があったので、その場で「陛下は胃の病気で、何とかしなければなりません」と医師としての意見を伝えました。精密検査を行うと、十二指腸が数センチにわたって、針の穴ぐらい細くなっていました。がんが原因であることは間違いなく、手術の必要性が明確になったのです。侍医長が進言すると、陛下はひと言「医者に任せる」と。陛下の手術がこれほどすんなり決まるとは思ってもいませんでした。

 手術に要した時間は3時間30分。術後15日目に退院され、その後1年間は侍医や看護師が交代で寝ずに介護にあたりました。

――88(昭和63)年、8月の全国戦没者追悼式に出席した翌月に天皇は大量に吐血。国内が「天皇陛下、ご重体」という報道で騒然となった。

 御座所に呼ばれて伺うと真っ赤な血を吐き、下血もされていました。震えながら始末をしていたら、陛下が「伊東、今日は満月だよ。その障子を開けてご覧、きれいだ」と言われました。まるで首から下は自分ではないような、そんな感じでした。床に伏せている陛下がなぜこの日が満月ということをご存じなのか。最近になって、仕奉人(つかまつりびと)さんが大きな鏡を持ってきて、月をお見せしていたことを知りました。

 陛下には病名を告知していません。現在の天皇陛下はどんなご病気も告知を受け、それを包み隠さず国民に公表されていますが、当時は違いました。それで侍医長と議論もしました。私は告知すべきと思い、「迷いのないお心であるから告知してもいいのではないか。ひと言この世に残しておかれたいお言葉があるのではないか」と伝えました。

 結局、陛下に病名が伝わることはなく、陛下からも問いはありませんでした。ただ、あれほどの症状がおありでしたから、病状は理解されていたと思います。

――同年大晦日天皇の呼吸が止まる。その日の当直は伊東さんだった。

 以前からすでに意識はなく、輸液と輸血でコントロールされていました。陛下の呼吸が止まって「昭和64年は来ない」と思った、そのときです。看護師が陛下の胸をタンタンとたたくと、呼吸が戻ったのです。ちょうど昭和64年が明けたところでした。それから1週間、延命されました。

 1月7日午前2時。自宅で待機していた私に、呼び出しがかかりました。皇太子同妃両殿下(今上天皇美智子皇后)、常陸宮両殿下、竹下登総理(当時)が見守るなか、心電図のモニターがツーッとまっすぐになりました。侍医長がまず陛下に頭を下げ、それから皇太子同妃両殿下に頭を下げました。「すべてが終わった、昭和が終わった」と思いました。

週刊朝日 2016年4月29日号より抜粋