われは海の子 白浪の…。
「われは海の子」は、明治43(1910)年の尋常小学読本唱歌に掲載されて世に出ました。
作者不詳とされてきた名曲の作詞者が明らかになったのは、約80年後の平成元年です。
決め手となったのは、北欧文学者、宮原晃一郎の一人娘が保存していた手紙でした。宮原は文部省の詩の懸賞募集に、「海の子」と題した作品を応募していました。その入選通知が残っていました。
宮原の長女が所有していた『海の子』の入選通知書(上)と著作権譲渡依頼書(下)
平成12年7月20日の「海の日」には、宮原の故郷、鹿児島市の海を望む公園に歌碑が建てられました。
「年末の第九のように、海の日には日本中でこの歌が歌われるようになればいい」
除幕式では、こんな声が上がっていました。
歌碑には、3番までの歌詞が刻まれています。
海辺に生まれ、たくましく育つ少年が主人公です。
実は歌詞はまだ続きます。少年はやがて鍛え抜いた体を持つ青年となり、大海原にこぎ出していきます。終戦後、GHQの指導で文部省唱歌から追放されたのは、7番の歌詞が原因でした。
「いで大船を乗り出して われは拾わん海の富 いで軍艦に乗組みて われは護らん海の国」
この部分が、軍国主義を想起させるというのです。昭和33年から再び教科書に載るようになったものの、3番までしか歌われなくなりました。
久しぶりに全曲を聴いてみましたがやはり海洋国家、日本にふさわしい名曲でです。
日本近辺の海底には、豊富な資源が眠っていることがわかってきています。尖閣諸島周辺での領海侵犯を常態化させている中国の公船は、九州北部海域の領海にまで侵入を始めました。海の富、海の国を守る覚悟をいよいよ固める時です。
「われは海の子」を7番まですべて歌う時としたいです。
われは海の子
文部省唱歌、作詞:宮原晃一郎、作曲:不詳
1 われは海の子 白波の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
わがなつかしき住みかなれ
2 生まれて潮にゆあみして
波を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の気を
吸いて童(わらべ)となりにけり
3 高く鼻つくいその香に
不断の花のかおりあり
なぎさの松に吹く風を
いみじき楽(がく)とわれは聞く
4 丈余のろかいあやつりて
ゆくて定めぬ波まくら
ももひろちひろ海の底
遊びなれたる庭広し
5 いくとせここにきたえたる
鉄より堅きかいなあり
吹く潮風に黒みたる
はだは赤銅(しゃくどう)さながらに
6 波にただよう氷山も
来たらば来たれ 恐れんや
海巻きあぐる龍巻も
起らば起れ おどろかじ
7 いで大船を乗り出して
われは拾わん海の富
いで 軍艦に乗り組みて
われは護らん海の国