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誰かの為に何かを残せればと思います。

乃木希典将軍「遺言条々」と「殉死」

明治45年(1912)9月13日、日露戦争の輝ける英雄、乃木希典将軍(六三歳)は明治天皇に殉じて自刀しました。

その日は明治天皇の御大葬の日でありました。

乃木将軍は明治天皇に殉じる前に「遺言条々」と題した遺言書を残しました。

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以下に乃木将軍の「遺言条々」の原文と現代語訳を記します。原文は,乃木神社(港区赤坂)にて所蔵されています。

⚪原文

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『遺言条々』
第一
自分此度御跡ヲ追ヒ奉リ自殺候段恐入候儀其罪ハ不軽存候
然ル處明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ其後 死處得度心掛候も其機を得ず
皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙
追々老衰最早御役ニ立候時も無餘日候
折柄此度ノ御大変何共恐入候次第茲ニ覺悟相定候事ニ候

第二
両典戦死ノ後は先輩諸氏親友諸彦よりも毎々懇諭有之候得共養子ノ弊害ハ古来ノ議論有之
目前乃木大見ノ如キ例他ニも不尠特ニ華族ノ御優遇相蒙り居
実子ナラハ致方も無之候得共却テ汚名ヲ残ス様ノ憂ヘ無
之為メ天理ニ背キタル事ハ致ス間敷事ニ候
祖先ノ墳墓ノ守護ハ血縁ノ有之限りハ其者共の気ヲ付可申事ニ候
乃チ新坂邸ハ其為メ区又ハ市ニ寄付シ可然方法願度候

第三
資財分輿ノ儀ハ別紙之通り相認置候
其他ハ静子より相談可仕候

第四
遺物分配ノ儀ハ自分軍職上ノ副官タリシ諸氏ヘハ時計メートル眼鏡馬具刀剣等軍人用品ノ内ニテ見計ヒノ儀塚田大佐ニ御依頼申置候
大佐ハ前後両度ノ戦役ニも尽力不少
静子承知ノ次第御相談可被成候
其他ハ皆々ノ相談ニ任セ申候

第五

御下賜品(各殿下ヨリノ分も)御紋付ノ諸品は悉皆取纏メ学習院へ寄付可然
此儀ハ松井猪谷両氏ヘも依頼仕置候

第六
書籍類ハ学習院へ採用相成候分ハ可成寄付
其餘ハ長府図書館江同断不用ノ分ハ兎も角もニ候

第七
父君祖父曾祖父君ノ遺書類ハ乃木家ノ歴史トモ云フヘキモノナル故厳ニ取纏メ真ニ不用ノ分ヲ除キ佐々木侯爵家又ハ佐々木神社ヘ永久無限ニ御預ケ申度候

第八
遊就館ヘ出品は其儘寄付致シ可申
乃木ノ家ノ記念ニハ保存無此上良法ニ候

第九
静子儀追々老境ニ入石林ハ不便ノ地病気等節心細クトノ儀尤モ存候
右ハ集作ニ譲り中野ノ家ニ住居可然同意候
中野ノ地所家屋ハ静子其時ノ考ニ任セ候

第十
此方死骸ノ儀は石黒男爵ヘ相願置候間可然医学校ヘ寄付可致
墓下ニハ毛髪爪歯(義歯共)ヲ入レテ充分ニ候(静子承知)

○恩賜ヲ頒ット書キタル金時計ハ玉木正之ニ遣ハシ候筈ナリ
軍服以外ノ服装ニテ持ツヲ禁シ度候

右ノ外細事ハ静子ヘ申付置候間御相談被下度候
伯爵乃木家ハ静子生存中ハ名義可有之候得共呉々も断絶ノ目的ヲ遂ケ候儀度大切ナリ
右遺言如此候也

大正元年九月十二日夜

希典

(花押)

湯地定基
大舘集作
玉木正之

静子

⚪現代語訳
第一

私は,この度,畏れ多くも天皇陛下のお後を追わせて頂くため自殺を致します。
私の罪は軽くありません。
西南戦争において軍旗を失いました。
その後,死に場所を求めておりましたが,機会を得られず生きながらえ,天皇陛下の深い御恩によって今日まで過分なるご厚遇を頂戴しましたが,ますます老い衰え,ご皇室のお役に立てる時も残っていない折り,この度の一大事が生じ,全くもって恐れ入る次第であり,ここに覚悟を定めることと致しました。

第二
長男・勝典と次男・保典が戦死した後は先輩諸氏及び親友の方々からも,毎度,心を砕いて諭して頂きましたが,養子をとることの弊害は古くから謂われており,乃木申造や大見丙子郞のような例も少なくありません。
特に華族としての待遇を受けており,実子がいたなら家名存続も致し方ありませんが,実子がいませんので,かえって汚名を残すことへの心配がなく,天理に背くことはするべきでありません。

祖先の墓守は血縁の者がいる限りはその者たちが気をつけるべき事です。
従って,新坂の家は赤坂区又は東京市に寄付するようお願いします。

第三

遺産のことは別紙のとおり。その他のことは静子から相談させます

第四
形見分けについて,自分の軍職上の副官だった諸氏には時計,メートル眼鏡,馬具刀剣など軍人用品の中から見繕って配分するよう塚田大佐にお願いします。
塚田大佐は,日清・日露戦争において少なからず尽力し,静子も承知のことですので,相談してください。
その他のことは皆の協議に任せます。

第五
天皇陛下から賜った品(各殿下から賜った品も),(皇室の)御紋付きの品は,すべて取りまとめて学習院へ寄付するように。このことは,松井・猪谷両氏にも依頼します。

第六
書籍について,学習院に引き取ってもらえるものは寄付します。そのほかは長府図書館に寄付します。
学習院同様,不要ということであれば別ですが。

第七
父,祖父,曾祖父の遺書の類は,乃木家の歴史ともいうべきものですので,しっかりととりまとめ,本当に不要なものを除いて,佐々木侯爵家又は佐々木神社へ永久無限にお預かり頂きたい。

第八
遊就館について,出品しているものはそのまま寄付します。
乃木家の記念として保存するにこれ以上よい方法はありません。

第九
静子について,いよいよ老境に入り,石林は不便なであって病気などした場合には心配であるとのこと,もっともです。石林の別邸は大舘集作に譲り,中野の家に住んで下さい。
中野の土地建物の処分は,静子のその時の考えに任せます。

第十
私の死体のことは石黒男爵にお願いします。医学校へ寄附して下さい。
墓には死体の代わりに毛髪・爪歯(義歯も)を入れれば十分です(このことは静子も承知しています。)。

恩賜の金時計は玉木正之に渡しました。軍服以外の服装のときにこの時計を持つことを禁じます。

以上のことのほか,細かなことは静子に申しつけておきましたので,相談してください。
乃木伯爵家は,静子生存中は存続させて構いませんが,断絶させるという目的を遂げることが重要です。

遺言は以上のとおりです。

大正元年9月12日夜

希典

(花押)

湯地定基殿
大舘集作殿
玉木正之殿

静子殿

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遺言は9月12日に書かれ翌日の1912年9月13日明治天皇の御大葬の日、夫妻は天皇を偲ぶ和歌を各一首そして乃木将軍はさらに次の辞世一首を遺していました。

 

うつし世を神さりましゝ大君の
みあとしたひて我はゆくなり

 

その当日、乃木将軍は殉死の計画に細心の注意をはらい、冷静に実行されたそうです。自刀の当日に別当の少年と書生に暇をやっていたのも計画の一部であったろうと思われます。

そして居間に篭った夫妻は明治天皇の写真、戦死した二人の息子の写真を飾り乃木将軍は陸軍大将の軍服を着し、静子夫人は紋付姿でした。

 

弔砲の轟きとともに、じっと耐えて待っていたひと時が終わりました。

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警視庁警察医による死体検案始末書から推するところによると、先ず静子夫人は短刀を用い、三度その胸を刺された。

一度は胸骨に当たり、二度目は右肺にまで達しましたが、これでも死に切れません。

三度目の右肋骨弓付近の傷は既に力が尽き始めていたのか浅かったそうです。
そこで乃木将軍が手伝わざるを得なかったであろうと思われ、想像するに乃木将軍は畳の上に、短刀を拳をもって逆に立て、それへ静子の躰を被せ、切先を左胸部に当てて力を加えたようです。

これが致命傷で刃は心臓を貫き、それが背の骨にあたって短刀の切っ先が欠けていたということです。

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その後、乃木将軍は古式に従って自刃しました。乃木将軍は坐して上着を脱ぎ、軍服のボタンを外し、腹を寛げました。そして軍刀を抜き、刃の一部を紙で包み、逆に擬し、やがて左腹に突き立て、臍のやや上方を経て右へ引き回し、一旦その刃を抜き、第一創と交叉するよう十字に切り下げ、さらにそれを右上方へ撥ね上げました。

十文字腹という作法だそうです。

次いでズボンの釦を丁寧にかけたのち、刃を上に、軍刀の柄を膝の間に立てると、死へ向って身を投げかけました。刃はうつ伏した乃木将軍の頸部を貫き、頸動脈を裁断しました。

畳の上に鮮血が迸るなかで、乃木将軍は直ちに絶命したそうです。

乃木夫妻殉死の噂は、御大葬の儀式が終る前から、誰いうとなく広まったと言うことです。

公式発表は自刃の全貌を明らかにしていなかったため、新聞報道の一部には食い違いがありました。しかし全面的な公式発表がない状況でも、大衆は殉死という事件に湧き立ち、賛否両論が入り乱れました。すでに徳川幕府によって殉死が禁止されて以来、約二百五十年を経ているときに、乃木将軍の行為は時代錯誤であると考える人々もいました。

もと学習院の生徒であった作家・志賀直哉は「…馬鹿な奴だという気が、ちょうど下女かなにかが無考えになにかしたとき感ずる心持ちと同じ様な感じ方で感じた」と日記に書いています。
しかし民衆や新聞の大多数は乃木の切腹に感動し、明治天皇への至忠を貫いた崇高な行為として賞め称えたそうです。