【隼】🇯🇵JAPAN🇯🇵 hatenablog

誰かの為に何かを残せればと思います。

占守島の戦い

ロシアは大東亜戦末期の昭和20年8月9日、日ソ中立条約を無視し我国に対し宣戦布告しポツダム宣言受諾後の8月18日に千島列島に侵攻、その後9月5日までの間に北方四島の全てを占領し一方的に自国に編入した。

占守島(しゅむしゅとう)の戦いは,昭和20年8月17日23時頃,日本の第5方面軍が守る占守島ソ連軍が奇襲上陸することから始まります。戦争が終わった後に火蓋が切られた戦いです。終戦に乗じて火事場泥棒のように日本の領土を奪わんと国境の島に攻め入ってきたソ連軍を日本軍が迎え撃った防衛戦です。占守島と言われても,どこにあるか知っている人は皆無に近いと思うので,以下に地図を掲載します。

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この小さな島での戦いは,日本の圧倒的な優勢で推移しましたが,停戦協定を締結するに至り,8月23日に日本軍は武装解除となりました。その後,戦った将兵はシベリアへ抑留され,3年以上におよぶ過酷な労働を強いられ,多くの命が失われました(このような卑劣な行為を受けても,日本人はすぐに忘れてしまいます・・・).

占守島の戦いは現在の北方領土問題につながっています。この戦いで日本が負けていたならば,その勢いでソ連は北海道まで侵攻していたでしょう。下手をすれば,日本はドイツのような分断国家となって,仙台は北日本共和国の首都になっていたかもしれません。

この重要な戦いに勝つことができたのは,日本に優秀な指揮官がいたからです.樋口季一郎中将と池田末男大佐(戦死後,少将)です。

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樋口季一郎中将

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池田末男大佐

第5方面軍司令官の樋口中将は,陸軍きってのロシア通と言われ,情報に基づいた合理的かつ冷静な考えができる将でした。杉原千畝と同様,多くのユダヤ人を救った人道主義者です(マスコミは軍人を取り上げないので,杉原千畝ほど有名ではありません)。ソ連が攻めてきたとき,他の指揮官なら武装解除の特使であると思い込み,泥縄の対応になったことでしょう。しかし,樋口中将はソ連ならこの機に乗じて攻めてきてもおかしくないと考え,戦闘開始を即断したのです。樋口中将の素早い的確な判断によって,日本は分断を免れたと言っても過言ではありません。

樋口中将の命を受け,主力として最前線で奮闘したのが,「士魂部隊」と呼ばれた戦車第11連隊です。アリューシャン経由で来襲が予想されたアメリカ軍に備え,陸軍の精鋭が集められていました。率いるのは「戦車隊の神様」と呼ばれた池田大佐です.戦争が終わったのですから,隊員たちは故郷に帰るのを楽しみにしていました。その中,池田大佐は出撃に際し,「赤穂浪士となって恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか,あるいは白虎隊となり,玉砕をもって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか」と部下たちに問いました。「赤穂浪士たらんとする者は一歩前に出よ.白虎隊たらんとするものは手をあげよ」と呼びかけたところ,全員が挙手している姿でした。士魂部隊は、全員、白虎隊となることを選択したのです。家族と再会する夢をおいて,「防波堤」になるため,全員が玉砕を決意しました。池田大佐は涙ぐみながら,「ありがとう,連隊はこれより全軍をあげて敵を水際に殲滅する」と出撃命令を下したと伝わっています。池田大佐は隊長車に乗り込み,先陣を切りました。まさしく指揮官先頭です。

戦車第11連隊に配備されている主力はチハ車と呼ばれる97式中戦車でした。

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左:チハ車 右:主砲を強力にしたチハ車改(隊長車と同型)

このチハ車は残念ながら強力とは言えない戦車でした。装甲は最厚でも25mmしかありません。装甲の薄い箇所だと,歩兵の銃でも射貫かれるほど脆弱でした。非力な戦車を強靱な精神で操って,池田大佐はソ連軍を撃退したのです。戦車から裸の上半身を露出し、鉄カブトもかぶらず、日の丸の手ぬぐいで鉢巻をしただけの姿で、1M×80cmぐらいの大きな日章旗を振って戦車の上から「前進!前進!」と突撃の合図をしながら戦い続けたのです。

そんな隊長の姿は、いやでも敵の目につきます。
やがて銃弾が、隊長車に集中する。

搭乗していた指揮班長の丹生少佐が、まず先に撃たれたそうです。
そのとき、池田隊長は丹生少佐の遺体を落としてはならぬと、にわかに縄を出して丹生少佐の死体を自分の戦車の砲塔に自分で縛りつけたそうです。
そして今度はその砲塔の上に全身を露出させてまたがり、例の日章旗を振り振り、なおも全軍に前進を命じられていました。

戦車のウイーク・ポイントは横腹です。
ここは鋼板が薄く、そこを狙って撃たれ、だいぶやられたました。池田隊長車も、突撃を命じて30分ぐらい、敵をさんざん踏みにじったあと、対戦車銃を横腹に受け、それで中に積んであった弾薬が誘爆し、擱坐炎上しました。

池田隊長の乗車した戦車は、炎上したのちも、しばらく前進したそうです。
その姿は、まるで、死しても前進を止めない隊長の魂が、戦車に乗り移ったかのようだったそうです。

この占守島守備隊の活躍について、戦後は教科書に一切載せていません。
まるであたかも「なかったこと」にしているかのようです。
まれに占守島の戦いについて書いているものでも、この戦いを「無駄な戦い」、「戦死者は犬死に」と一蹴しています。

占守島には、いまも当時の日本兵の戦車や遺骨、遺品が眠ったままになっています。

戦後77年が経過したいま、日本は、あらためて勇敢に散って行かれた英霊たちへの感謝を捧げるとともに、散って行かれた彼らに恥じない、ほんとうの日本を取り戻す時にきているといえるのではないでしょうか。

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現在、北海道に配備されている陸上自衛隊の第11戦車大隊は伝統を継承し、「士魂戦車大隊」と称しています。

 

一源三流と言う言葉があります。私の座右の銘でもあります。

一源とは誠の事で誠の心から三つの流れがあり、その三つの流れとは、

一、国のために血を流す

一、友の為に涙を流す

一、家族の為に汗を流す

という事です。

私達日本人にはそうした先人達のDNAが流れています。日本の為に散って行かれた先人達に恥じないよう、日本を取り戻しましょう。美しい国、日本を子々孫々に継承してまいりましょう。

先人達のDNAが流れている私達には必ず出来るはずです。