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誰かの為に何かを残せればと思います。

江戸時代の伊勢参り

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江戸時代の中期以降の庶民の楽しみの一つに、旅行がありました。しかし、当時はただの観光目的の旅には許可が下りなかったために、あくまでも表向きは寺社への参拝ということになっていました。

その中でも特に人気だったのが、伊勢参りです。火付け役となったのは、十返舎一九の書いた「東海道中膝栗毛」だといわれています。弥次さんと喜多さんが、厄落としのために江戸から伊勢神宮に向かう様子を、面白おかしく書いた書物です。

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江戸時代の人が伊勢参りをするには、移動だけで往復25日前後の日数がかかったようです。
大井川の川止めや伊勢での滞在日数を考慮して、1ヶ月程度の日程計画でした。江戸から伊勢神宮までの距離は126里ですから、往復で252里ということになります。1里は4kmですから、252里というと1,008kmということになります。
もちろん、当時は現代のような乗り物などありませんから、すべて徒歩です。約1,000kmの距離を約25日間で歩き切ったということですから、1日あたり40kmを歩いたわけです。マラソンランナーが走る距離とほぼ同じ距離を、毎日歩き続けるわけです。 現代人であれば、おそらく初日でギブアップしかねない距離です。それを25日間ずっと歩き続けるわけですから、江戸時代の人の脚力には、あらためて驚かされます。

伊勢参りの費用はおよそ大工さんの給料1か月分だったそうです。

江戸時代の旅というのは、基本的に自分の足でひたすら歩くことになるわけですから、現代の旅行のように乗り物代はかかりません。しかし、宿泊したり食べたりする分のお金はかかります。現代であれば新幹線を使って、東京から伊勢神宮の参拝を日帰りで済ませることも可能ですが、当時の伊勢参りは1ヵ月近くの長旅だったわけです。乗り物代がかからない分、旅の途中における1ヵ月分の宿泊費と飲食代は、かなりの金額になったに違いありません。平均的な伊勢参りの場合で、1日あたり1万円程度かかったといわれていますので、トータルで30万円程度かかったことになります。現代ならば、ちょっとした海外旅行に行けるほどのお金が、伊勢参りには必要だったわけです。

30万円というと、当時の大工さんの給料がその程度であったといわれています。つまり、伊勢参りには大工さんの給料1ヵ月分程度の費用がかかったわけです。

江戸時代の人が伊勢参りに行くと、およそ当時の大工さんの1ヵ月分の給料程度の旅費がかかるということですが、一生に一度の楽しみとはいえ、旅行にそれだけのお金を使うことができた江戸時代の人は、けっこうな蓄えを持っていたように感じるかも知れません。しかし、江戸の庶民たちの暮らしは、それほど余裕のあるものではなく、実際にはほとんど蓄えなどありませんでした。

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「江戸っ子は宵越しの金は持たない」といわれますが、貯蓄をするという習慣があまりなかったようです。江戸の町は非常に火事が多かったので、せっかくため込んだ金を灰にしてしまうのもバカらしいので、いまあるお金は全部使ってしまった方がいいという考え方が定着していたのでしょう。

それでは、伊勢参りにいくお金はどこから捻出したのでしょうか?実は、伊勢講と呼ばれる仲間内で作る組織があって、そのグループで伊勢参りのための旅費を積み立てていたのです。会社でいうと厚生会みたいな感じでしょうか。。

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そして、積み立てた旅費を使って、代表者が持ち回りで伊勢参りをすることになっていました。実際に自分に順番が回ってくるまでには何十年もかかることがあるため、伊勢参りは一生に一度の楽しみということになっていたわけです。

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伊勢の帰りには善光寺に寄ることも多かったようです。伊勢参りは一生に一度の楽しみではありますが、伊勢神宮に参拝しただけでとんぼ返りをしてしまったのでは、もったいないと考える人も少なくなかったようです。そのため、伊勢神宮に向かうときには東海道を歩いていきますが、帰りは中山道を通って、信州にある善光寺に寄ってから江戸に戻るのが一般的だったようです。江戸時代には「一生に一度は善光寺参り」などと言われましたが、実は伊勢参り善光寺参りを同時に行われることが多かったようです。金銭的な負担を考えたら、一度に回ってしまった方が合理的だと考えたわけです。江戸時代には観光目的の旅行は許可されなくても、こうした寺社参拝が目的という大義名分があれば、複数の神社やお寺を回って旅をすることができたわけです。

泊まる場所には木賃宿と旅籠の2種類がありました。伊勢参りは約1ヵ月にわたる長旅となります。旅にかかる費用のなかでも、宿泊のためのお金が一番のウエイトをしめます。当時の宿屋には2種類あって、節約派に好まれた木賃宿(きちんやど)と、お金に余裕がある人が泊まる旅籠(はたご)です。

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木賃宿というのは、ほとんど素泊まりのようなもので、食事に関しては自分で自炊をしなければなりませんでした。飯を炊くための薪代を支払うという意味で、木賃宿と呼ばれるわけです。一泊あたり40文程度で泊まれたといいますから、現代の貨幣価値になおしますと、800円程度でしょうか。しかし、さすがに長旅をするにあたって、自炊のために重い米を持ち歩くのは不便だということで、のちに薪だけではなく米も提供してくれる木賃宿も出現するようになりました。

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それに対して旅籠というのは、食事付きですから自炊をする必要はありません。旅人にしてみれば寝床と食事の心配をすることがないので大変便利ですが、その代わり木賃宿にくらべて料金も大幅アップになります。東海道沿いの旅籠であれば、2食付きで200文~300文といったあたりが相場だったようです。現代の貨幣価値になおすと、4,000円~6,000円といったところです。旅籠は相部屋が基本でしたから、2食付とはいえ料金的にはかなり割高感があります。
中山道沿いだともう少し安く、150文~250文(3,000円~5,000円)だったようです。食事付きといっても、現在の旅館やホテルのように豪勢なものが出るわけではなく、どこの旅籠も1汁3菜が基本だったようです。1汁3菜というのは、ごはんとみそ汁とお新香、そこに魚料理と野菜の煮物が少々といった程度です。

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泊まるところは宿場町にしかありませんでした現代であれば、全国各地どこでも宿泊場所をみつけることは出来るでしょう。しかし、江戸時代には木賃宿や旅籠がある場所は、あらかじめ決められていました。それが街道沿いにある宿場町と呼ばれる場所です。

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東海道にはこの宿場町が53ヵ所あるため「東海道五十三次」などと呼ばれたりするわけです。東海道の宿場町間の距離で一番長いところは、大磯から小田原までで17.3kmありました。一番短いところは御油から赤坂までで、その距離はわずかに2.1kmでした。江戸時代の人たちは1日に40km程度歩くことができましたから、日が暮れるまでには必ずどこかの宿場町にはたどり着くことができたわけです。


1日に40kmも歩いて疲れ果てている夕暮れ時に、宿場町の薄明りを見つけた伊勢参りの旅人たちは、さぞかしほっとした気分になったことでしょう。

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引用元:江戸時代インフォメーション