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誰かの為に何かを残せればと思います。

明治天皇の崩御

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明治天皇が崩御されたとされる日時は宮内省発表によると1912年(明治45年)7月30日午前0時43分です。

今から111年前のことであり、満59歳の御年でした。昭和天皇がかなりご長命であったことや、上皇陛下も長生きをされていることを考えると、かなりの若さで亡くなられた感があります。

「明治天皇記」には、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発して崩御されたとあります。

この年の7月11日の東京大学卒業式に出席した時から、もう既にご気分は悪かったようです。

侍医では対応できなくなり、大学医らが診療にあたりました。森鴎外とも親交があり、森がその才能を高く評価した樋口一葉の診察も行ったことで知られる医学博士、青山胤通(たねみち)らが診察し、得られた診断結果が尿毒症でした。

28日に痙攣が始まり、初めてカンフル、食塩水の注射が始まりました。皇室内には病や死などの「穢れ」を日常生活に持ち込まないという古い宮中の慣習により、天皇の寝室に入れるのは基本的に皇后と御后女官(典待)だけでした。

このほか、特別に侍医は入れましたが、限られた女官だけでは看病が行き届かないということで、それまで病室であったご自分の寝室から居間であった「御座所」が臨時の病室ということになり、ここで一般看護婦がお世話をしました。ただ、この看護婦も勲5等以上でなくてはならない決まりで、5位以上の女官が看護をしたといいます。

宮内省は崩御日時を7月30日午前0時43分と公表しましたが、当時宮内書記官であった栗原広太は、その後の回想録で、「本当の崩御日時は前日の7月29日22時43分であった」と記しています。

これは、29日に亡くなった時、その日が終わるまで1時間程度しか残されていなかった為であり、践祚(せんそ=皇嗣が天皇の位を継承する事)を崩御当日に行う事が出来なくなった為です。皇室の規定上、践祚式を崩御当日に行わなければなりません。

皇太子嘉仁親王(大正天皇)が新帝になるための色々な手続きが必要であり、その時間を確保するため、様々に評議した上で、崩御時刻を2時間遅らせる事になり、翌日午前0時43分と発表されました。

天皇崩御に際して、その側にいた皇族の「梨本宮妃伊都子」は、この間の様子を日記に克明に記しています。彼女の日記によれば、伊都子ら皇族は28日に危篤の報を聞き、宮中に参内し待機していました。

29日午後10時半ごろ、奥(後宮)より、「一同御そばに参れ」と召されたため、伊都子らが部屋に入ると、皇后、皇太子、同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てをしていました。

天皇は漸次(ぜんじ)、呼吸弱まり、のどに痰が罹ったらしく咳払いをしましたが、時計が10時半を打つ頃には、声も途絶え、周囲の涙のむせぶ音だけとなりました。

2~3分すると、にわかに天皇が低い声で「オホンオホン」と呼び、皇后が「何にてあらせらるるやら。」と返事をしましたが、そのまま音もなく眠るように亡くなったといいます。

その最晩年は、持病の糖尿病のために体調も悪く歩行に困難をきたすようになっておられました。

また、糖尿病の進行に伴う強い眠気から枢密院会議の最中に寝てしまう、という事もあったといい、「坐睡三度に及べり」と侍従に愚痴られています。

この時期にはそれまでの壮健だった天皇に見られなかったことがいくつも起こり、周囲を心配させたといいます。

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「大喪の礼」は、同年(大正元年)9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において執り行われました。

このほか、崩御からこの日までの約1ヶ月半の間、宮中ではこれ以外の様々な儀式が執り行われていました。

なお、この大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻をはじめ、多くの人が殉死し、社会的影響を与えました。

大喪の礼終了後、明治天皇の柩は遺言に従い御霊柩列車に乗せられ、東海道本線等を経由して京都南郊の伏見桃山陵に運ばれました。京都での埋葬は翌日の9月14日になされています。

この大喪の礼の為に設えられた旧青山練兵場の葬場殿跡地には1926年(大正15年)に「聖徳記念絵画館」が建てられました。

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この明治天皇の崩御は世界各国で報道されました。天皇崩御に関するこれらの記事は、衆議院議員(7期)でジャーナリストでもあった、望月小太郎が、明治天皇の一年祭に際して編纂刊行された「世界に於ける明治天皇」にまとめました。

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各国(20余)別、全28章からなり、そこには、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカはもとより、中国、インド、ベルギー、スウェーデン、ペルーなど世界各国をはじめ、ハワイ、ブラジルなど日系移民と関わりの深い国の新聞の論調がまとめられ、このほか在中国外国人が書いた記事まで掲載されていました。

この望月がまとめた論評によれば、日露戦争を戦ったロシアは「沈痛懐疑の口調の中にも能く先帝陛下が常に恋々として平和を愛したる御真情を解得」したと書いています。

このほか、フィリピンでは、明治天皇のために挽歌が創られたことなどが書かれています。さらに南米諸国では、「我が国体の崇高さ」や「先帝陛下の叡聖(えいせい)」などを、憧れ、敬慕するとして感心しているといった記事が書かれていたそうです。

そして、トルコ、インド、ペルシャ、アフリカなどのいわゆる「有色人種」の間では、「明治大帝は亜細亜全州の覚醒を促し給いたる救世主」と賞賛し、「土民に事由制度を許した」と彼らが明治天皇を高く評価していたことを報じています。

明治天皇が写真嫌いであったことは有名です。

現在、最も有名になっている若い頃の明治天皇の肖像は、エドアルド・キヨッソーネによるものです。

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最も有名な御真影
エドアルド・キヨッソーネによって描かれたコンテ画を丸木利陽が写真撮影したもの

明治21年(1888年)1月・36歳頃

これは、ご本人は写真嫌いだったものの、この時代、国の最高指揮官が天皇であったこともあり、政治的にも何かとその「御真影」が必要となることも多く、苦心の末に作成されたものです。

明治天皇ご自身の注文もあったためか、かなり若々しく描かれています。

一方、下の肖像画はその2年後に書かれたものですが(作者不詳)、上のものと比べてかなり年上に見えます。

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1890年38歳頃の明治天皇

 

明治29年(1896年)に、当時の東京府南葛飾郡(現在の東京都墨田区)に存在した水戸徳川家の私邸を訪問した際に、邸内を散策する明治天皇が隠し撮りされた写真が平成29年(2017年)に発見されており、こちらは上の肖像画に似ているといいます。

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栃木県那須村演習統監時の写真
1909年〔明治42年〕11月、晩年の57才

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また明治44年(1911年)、福岡県八女郡下広川村において陸軍軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、この写真が生前の明治天皇が最後に撮影された姿といわれています。

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陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区桃山町にある伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)

桃山御陵(ももやまごりょう)です。

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京都に墓所が営まれたのは明治天皇の遺言によるものです。墳丘は古式に範を採った上円下方墳で、下段の方形壇の一辺は約60メートル、上段の円丘部の高さは約6.3メートル、表面にはさざれ石が葺かれています。上円下方墳の墳形は天智天皇陵がモデルにされたそうです。

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京都(畿内)に葬られた、最後の天皇でもあります。

 

すぐ東には皇后である昭憲皇太后の伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)が隣接します。

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周囲一帯は宮内庁の管理地「桃山陵墓地」となっており、京都市南西部から旧山陽道、旧西海道地域の陵墓を管理する宮内庁書陵部桃山陵墓監区事務所があります。

 

【余談】

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伏見桃山陵にある230段の階段は、明治天皇が教育勅語を下した1890年(明治23年)10月30日に由来します。

階段の段数は教育勅語が出された明治23年10月の23と10をかけた数になっています。

【交通アクセス】

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⚫︎JR西日本・奈良線 桃山駅
⚫︎京阪電気鉄道・宇治線 桃山南口駅
⚫︎京阪電気鉄道・京阪本線 伏見桃山駅
⚫︎近畿日本鉄道・京都線 桃山御陵前駅

 

 

 

 

 

昭和天皇のお人柄

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昭和帝のお人柄を紹介した本は多く、 歴代の侍従長や侍医が沢山の本を出しています。

・・・その中から幾つか逸話を紹介します。

 

1,閲兵の際に雨が降り出して

豪雨の中で昭和帝は最後まで直立の姿勢を崩さなかった。

側近は帝に雨に濡れない場所への移動を求めたが、応じず。

 

2,フランス語の辞書

愛用の辞書が余りにボロボロなので、 侍従がこれを買い換えようとしたが「もったいないから」と拒否。

 

3,学習院時代の名前

旧友同士が苗字で呼び合うのを見て、 自ら「竹山」と名乗り、旧友に呼び捨てにしてくれと要求。

 

4,ベトーについて

*ベトーとはvetoで、君主が大権をもって拒否または拒絶すること

昭和帝に叱責されて辞任、病死した田中義一の例を忘れず、 なるべく君主の拒否権を行使しないように気をつけていた。

これを行使したのは、226事件の時と終戦の時位だった。

 

5,フグについて

帝は毒に配慮してフグを食す事を禁止されていたが、 「フグを食べてみたい」と側近に言ってみるのが好きだった。

侍医などは、帝の「なぜ、ダメなのか」という下問に答えられず、 困ったりしていた。

しかし、これは帝の好きな冗談らしく、 帝自身、フグは食べられ無いと言う事は理解していたらしい。

 

6,相撲好き

大の相撲好きで有名だが、 贔屓(ひいき)の力士については質問されても決して明かさなかった。

贔屓の力士を言えば世間が騒ぎ色々な人に迷惑がかかると配慮した。

でも、実は蔵間のファンだったと推定されている。

 

7,陸軍の作戦に対して

戦前、陸軍が太平洋戦争についての説明をすると、これに反論。

参謀総長が返答に窮した。

あまり陸軍の作戦立案能力を信頼していなかった。

 

8,松岡洋祐が嫌い

三国同盟を推進した松岡洋右については非常に厳しかった。

「『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」

「一体松岡のやる事は不可解の事が多い」

「彼は他人の立てた計畫には常に反対する、又、条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持ってゐる」とまで語った。

松岡外相が外交の舞台に出ると必ず日本は窮地に立つので、 彼を信頼していなかった。どころか、スパイではないかと疑っていた。

後に松岡洋右が靖国に祀られると靖国参拝を取止める程の嫌いようだった。

 

9,反乱軍を鎮圧

2・26事件の際になかなか鎮圧に動こうとしない陸軍を叱咤。

自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうと発言して陸軍を慌てさせる。

ついに、この発言を聞いて陸軍は決起部隊を「叛乱軍」と認定する。

 

10,近衛師団を説得

玉音放送の録音盤を奪おうと終戦前夜に反乱した近衛師団に対し、 自ら兵の前に立って説得すると言い出し、側近に止められる。

 

11,終戦の責任を取る

終戦後、マッカーサーの元へ行き、責任は私にあると発言。

これを聞いたマッカーサーは本国に「天皇を戦犯から外せ」と要求。

この時のマッカーサーの電文は殆ど米政府への脅迫に近い。

 

12,暗殺者を改心させる

戦後、佐賀への巡幸中にシベリア抑留帰りの暗殺者が接近。

その時、帝は帰還者たちに「長く外国で苦労をかけた」とか、 「大変だったろう」と労いの言葉をかけて歩いている最中だった。

暗殺者はそれを見て号泣し、暗殺を断念してしまった。

 

13,実は皮肉屋

新宮殿を見に来た米国大使に「前のは貴方らに焼かれてね」と発言。

自民党内でグダグダの争いを展開しつつあった大平首相の参内では、 報告をする大平に一言も返さないでじっと見据え続けるということも。

記者の「いつも皇居からどこを眺めているか?」の質問に対して、 「国会議事堂だよ」と笑って答えた。

迷走する政治に対する皮肉。

 

14,A級戦犯に対して

晩年、行幸先の愛知県で早朝、殉国七士墓碑の前に向かい、 長時間直立でその碑を眺めていた。

この頃、靖国参拝は中止されていた。

これまで“A級戦犯”といえば東条英機元首相の代名詞であるかのように報じられてきた。

その東条元首相に対する帝の思いは、あたたかいものであった。

帝は語っている。

「元来、東条と云ふ人物は、話せばよく判る」

「一生懸命仕事をやるし、平素云ってゐることも思慮周密で中ゝ良い処があった」と。

東条の評判が芳しくないことについても

「圧政家の様に評判が立ったのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝らなかったことと又憲兵を余りに使ひ過ぎた」所為だとして、言葉を尽くしてかばっていた。

東条元首相の孫の由布子さんは、帝が靖国神社を参拝されなくなったあとも、宮中のお使いを東条家に派遣し「御心配の御伝言」をされていたと語る。

 

15,生物学が専攻だが本当は歴史学が好き

学生時代、歴史を専攻しようとしたが、政治に関与しすぎるとして断念。

政治とは無関係な生物学のしかも専攻にしている者が居ない分野を選択。

自分の出した研究が要らぬ配慮をされないようにと考えた末の結論だった。

 

16,異様なカリスマ性

米大統領・フォードは帝の謁見を受け、体の震えが止まらなかったと回想。

中国の指導者・鄧小平は帝の前で体が震えっぱなしだったと侍従が証言。

旧真田山陸軍墓地

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皆さんは大阪にある真田山陸軍墓地をご存知でしょうか⁈

心配しなくても大丈夫ですw

そう言う僕も今年初めまでその存在はあまり知りませんでしたw

元々僕は靖国神社崇敬奉賛会、千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会の会員で、それに関連したTwitter(X)に関心があり、そんな方々と相互関係で必然的に英霊の尊崇に関する通知が多い状況でした。

そんな状況下にある僕のTwitterタイムラインに飛び込んできたのが、

喇叭乃妖精按ば鳴生兵挙士(らっぱのようせいあんばーせいへいけんし)@ahakiAmber さんの固定ツイート「真田山陸軍墓地」でした。

*以下、親しみを込めて「賢ちゃん」と書きます。

ツイートを見ると週末になると真田山陸軍墓地の清掃ボランティアをしている賢ちゃんの姿でした。僕はある意味衝撃を受けネットで真田山陸軍墓地について調べ、

①明治4年(1871年)に日本で最初に設置された軍用墓地である事

②陸軍創設期(西南戦争)に亡くなられた兵士の墓地もある事

③全国でも最大規模の軍用墓地である事

④最古の歴史を持っているがゆえ納骨堂や墓碑等の傷みが激しく、その多くが風化や崩壊の危機に直面している事

まとめると、上記4点を知り、感銘を受け直ぐに賢ちゃんをフォローし相互関係になりました。

今年の3月位だったと思います。どのような内容かは忘れましたが、賢ちゃんから真田山陸軍墓地の写真集を作ったので無料で送付するとのコメントがあり興味津々だった僕は、その言葉に甘えました。それから一週間位たったある日、定形外郵便でA5サイズの写真集が届きました。驚いたのはその写真集は全46ページにも及ぶフルカラーの立派なもので、尚且つ令和4年真田山陸軍墓地秋季慰霊祭にも奉納された素晴らしい写真集だったと言う事です。

写真集の最終ページに、

写真撮影者:賢ちゃん

レイアウト:wataさん(@t_watabatake )

の名前が記載されており、wataさんも直ぐにフォローさせて頂き相互関係になりました。

 

写真集を少しだけ紹介します。

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表紙

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ネコちゃんも居ます。名前つきです。お二人の優しさが伝わります。

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最終ページ

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裏表紙ニャンコ♡

お二人の行動に感銘を受けた僕は直ぐ真田山陸軍墓地維持会の会員になりました。

少し長くなりますが真田山陸軍墓地周知の為に、

「真田山陸軍墓地維持会」、「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」より引用して真田山陸軍墓地を紹介します。

「真田山陸軍墓地維持会」より引用

【はじめに】

明治4年に設置されたこの真田山旧陸軍墓地は、全国で80箇所以上つくられた陸軍墓地の中でも最古の歴史を持ち、旧日本陸軍の歴史・文化を後世に伝える遺跡・遺物としても極めて貴重な存在となっています。真田山陸軍墓地維持会は昭和22年の創設以来、多くのボランティアの皆様に支えられながら、これら墓碑をはじめとする墓地の維持保存、慰霊祭の実施による、当墓地に埋葬・納骨せる戦没者の崇敬と世界の平和を祈念する思想の普及に寄与すべく活動しております。

【墓石の風化について】

明治4(1871)年に設置された真田山陸軍墓地は、全国で80ヶ所以上つくられた陸軍墓地の中でも、最古の歴史を持っています。それだけに、納骨堂や墓碑等の傷みが激しく、殊に墓碑は材質のもろさも加わって、その多くが風化や崩壊の危機に直面しています。特に、墓碑の傷みは著しいものになっており、全墓碑のうち、70%近くが何らかの傷みが見受けられ、その内、1000基を超える墓碑がいつ崩壊してもおかしくない状態にあります(崩壊危険度マップ参照)。

平成7(1955)年より約3年間かけて行われた国立歴史民俗博物館の専門学者による調査でも、その恐れが強く指摘され、早急な対策が必要であると訴えられております。真田山陸軍墓地維持会では、平成25(2013)年度から、まだ状態の良い墓碑において、崩壊が進行しないよう保存していく活動を行っています。今後は、崩壊寸前の墓碑についての対策も行っていきます。

しかし、民間の力だけでは、活動にも限度があり、早くから関係官庁に対策を要請し、また、各界から浄財を慕って部分的に修復も重ねてまいりましたが、目的達成にはまだ程遠い感があり、現在も会をあげてこの問題に取り組んでおります。

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「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」より引用

【各ゾーンにおける墓碑の配置】

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【各ゾーンごとの墓石配置】

Aゾーン 軍役夫 934基
Bゾーン 兵卒 1052基
Cゾーン 下士官 247基
Dゾーン 下士官 154基
Eゾーン 兵卒 707基
Fゾーン 兵卒 1413基
Gゾーン 将校 155基
Hゾーン 野田村遺族会建立 169基
Iゾーン 破損墓碑塚 260基以上
合計 5091基以上

【主な墓碑】

①陸軍草創期の入営者の墓碑(辛未徴兵・旧藩差出・壮兵等)
②徴兵令施行以後の兵卒および生兵の墓碑 
③西南戦争戦病死者の墓碑
(1)兵卒
(2)下士
(3)士官
④日清戦争と台湾派兵の墓碑
(1)兵卒
(2)軍役夫・職人・看病人など
⑤日露戦争の墓碑
(1)兵卒の個人墓
(2)合葬墓
⑥満州事変~上海事変の戦没者墓碑
(1)個人墓碑
(2)合葬墓
⑦納骨堂(忠霊堂)
⑧外国兵俘虜の墓碑
(1)清国兵俘虜
(2)ドイツ兵俘虜
⑨下田織之助の墓(最古の墓)
⑩旅団長今井兼利陸軍少将の墓
⑪軍医監堀内利国の墓
⑫南河内郡野田村遺族会建立墓碑
⑬破損墓碑塚
⑭「陸軍省管轄」の標柱

①陸軍草創期の入営者の墓碑(辛未徴兵・旧藩差出・壮兵等)

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"陸軍草創期に入営した兵卒らの墓碑が並ぶ一角"

《説明》

 陸軍草創期に入営した兵卒の墓碑はFゾーンの南部、西から6列ほどに集中して並んでいます。これらは、明治3(1870)から6年までに死没した兵卒らの墓碑群で、約140基あります。

 これらの墓碑は、明治6年徴兵令制定以前には大阪が日本陸軍発祥の地であったことを示すとともに、政府直属軍の確立と兵数確保のため政府が試行錯誤を繰り返したことも物語っています。草創期陸軍の姿を知る上で、全国的にも貴重な歴史遺跡と言うべきでしょう。ただし、現在では、墓石の風化や表面の剥落が進行し、文字は読みにくくなっています。

 集められたのは西日本を中心にする広い地域からでしたが、なかでも石川県・奈良県・和歌山県・名東県(現徳島県。一部淡路島を含む)・愛媛県からたくさん集められたことがうかがわれます。兵営では、各地から集められた兵卒たちが入り交じって生活し、伍長・軍曹など下士の指導で厳しい訓練を受けていました。

②徴兵令施行以後の兵卒および生兵の墓碑 

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"Fゾーン南側、東から西を見た景観"

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"Fゾーン北側、西側から東側を見た景観。遠くに南側も見えている"

《説明》

 1874年(明治7)徴兵令が実施に移されて以後、鎮台の置かれた大阪で死没した兵卒の墓碑群です。Fゾーン南側で西から7列目以東、および北側の西半分ほどに、あわせて1000基以上並んでいます。

 旧真田山陸軍墓地には、若者たちの墓碑がたくさん並んでいます。1874年には佐賀の乱、1877年には西南戦争があり、特に西南戦争は大戦争でした。しかし、それを除けば鎮台兵を動員した本格的な戦争はなかったにもかかわらず、このようにたくさんの墓碑が並んでいます。

 ちなみに、兵卒の死亡率は、伍長・軍曹などといった、軍隊生活に慣れた下士階級にくらべて高いものがありました。

 なかでも、入隊後6ヶ月間を「生兵(せいへい)」とされ、兵卒になるための基礎訓練をたたき込まれている期間中に死去する人の墓碑の多さには目を引かれるものがあります。なぜ、兵卒はこのように大勢命を落としたのでしょうか。

 その原因として考えられるのは、軍隊での厳しい訓練や兵営生活における上級者からのしごき、ストレスや事故、さらには、感染症や脚気などといった病気の広がりがありました。

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"重禁固中に脚気に罹って死没した人の墓碑"

この人物は、明治14年5月入営、11月二等卒拝命、その直前重営倉20日間入り、今度は外出先で飲酒、酔って巡査の鼻から出血させ、再び重禁固入監中に脚気に罹って死亡したとあります。

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"生兵の墓碑"
 この人物は、明治11年4月入隊、まだ生兵であった9月に中山寺村鎮台病院で死去と書かれています。

③西南戦争戦病死者の墓碑

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"Bゾーン南東側より。兵卒の墓が画面いっぱいに広がり、写真の右側にも小さく見える"
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"Cゾーン西側より。下士の墓が写真に見える奥の方5列ぐらいに広がっている"

《説明》

 1877(明治10)年2月に勃発した西南戦争は維新政府成立後最大で、かつ最後の大規模な内戦でした。政府軍(官軍)の数は6万人に上ったと言われています。

 さて、大阪ですが、熊本・大分・宮崎そして鹿児島県など九州各地で戦闘が続いている間、大阪は政府軍最重要の後方拠点となりました。政府首脳が大阪に詰めてさまざまな指示をしたほか、全国から集められた部隊がここで戦時編成され、武器・弾薬・食料その他の軍需品とともに戦地へ送られたのです。また逆に、戦場で傷を負ったり、病気にかかったりした兵士や士官たちは、ここに後送され、大規模につくられた大阪陸軍臨時病院などで手当てを受けました。しかし、手当の甲斐なく亡くなる者も少なくありませんでした。彼らは、所属する部隊にかかわらずここ真田山の埋葬地に葬られたのです。士官・下士官・兵卒を合わせ、総数は900人を超え、九州各地に創られた官軍墓地群と比べても最大規模となりました。その中には戦争終結後、凱旋する船中で広がったコレラに感染して死んだ人々もたくさん含まれていました。彼らは、死後、病気の感染が恐れられ、すぐに火葬されたのですが、墓碑はここに建てられました。

 死者は、兵卒・下士そして士官に区分され、墓地内のそれぞれの区画に埋葬されています。それぞれの区画において仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本の各鎮台、近衛歩兵あるいは新撰旅団など日本中から集められた人びとの墓が立ち並んでいます。

③(1)兵卒の墓碑
兵卒の墓碑はBゾーン東側の南北一帯、およびFゾーンの南側一部に立っています

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"石川県・山口県…。日本の各地から来た人の墓が並んでいます"

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"24歳一等卒の墓"
 有名な田原坂の戦いで負傷し、大阪臨時病院で死亡しています。

③(2)下士の墓碑

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"Cゾーン、西から東を望む"
下士の戦病没者墓碑はこの写真奥側から5列目ぐらいまでの幅で立っています。

《説明》

 西南戦争では、戦場で十数人の兵卒を直接指揮する伍長・軍曹などといった下士階級の者も多数死没しました。下士階級の者は、陸軍草創期から入営し、兵卒期間を終えても軍を去らず、なかば職業化している者が多く士族出身者も多かったのです。1874年(明治7)勃発した佐賀の乱に出征し、帰阪後兵卒を指導して西南戦争に出征し死亡した者もいます。

墓碑は兵卒に比べて一回り大きいが、見られるようにほぼ同じ形です。

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"陸軍伍長田村小二郎の墓碑"
 3月25日、肥後国滴水村で負傷し、4月22日大阪の臨時病院で死去。21歳と7ヶ月でした。

③(3)士官の墓碑

西南戦争に出征し、帰らぬ人となった人物は尉官以上の士官にもいました。

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"陸軍大尉溝部素史の墓(Gゾーン)"
 この人物は、入営の始まりから死没する直前まで、故郷の親に手紙を書き、軍隊での昇格に期待を寄せていました。職業軍人です。戦場で負傷し、大阪に後送されて治療を受けましたがその甲斐なく死去しました。

④日清戦争と台湾派兵の墓碑

④(1)兵卒の個人墓碑

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整然と並ぶ兵卒の墓碑群(Eゾーン。ここには707基の個人墓碑が並ぶ)
《説明》

 1894~95年(明治27~28年)の日清戦争は、朝鮮の支配権をめぐって清国を相手に戦われました。この戦争は、初めての本格的対外戦争としてよく知られています。しかし、その戦闘規模は、その10年後に戦われた日露戦争と比べはるかに小さなものでした。日本軍人と軍属の被害は、戦死1,132人、戦傷死285人、病死11,894人、合計13,311人とされています。

 戦死者数と病死者数は驚くべき対比を示しています。なお、病死の内訳は、1898年までで完了するとされた台湾統治のための派兵とあわすと20,159人、うち脚気以外が16,095人であり、その内訳としてはコレラ・消化器系疾患・赤痢・腸チフス・マラリアなど、伝染病死がほとんどとなっています。

 この墓碑の側面には、本人の所属部隊名・死没地名と病院名・死没年月日などだけが記載されました。それまでの個人墓碑が、出身地や親の名前・死没原因などを明記していたのとは大きく変わりました。ここに、墓碑を建てる目的に大きな変更が加えられ、戦没を称える方向が出現していることを見て取ることができるのではないでしょうか。

④(2)軍役夫・職人・看病人などの墓碑

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日清戦争と台湾派兵軍役夫等の墓碑群(Aゾーン。926基の墓碑が並ぶ)
《説明》

 軍役夫とは、戦争遂行に欠かせない物資の運搬、傷病兵の世話・後送、兵站地での物品販売など、軍の組織の不備を補うために、民間に業務を委任したことに由来します。日清戦争では15万4千人に上る軍役夫等が口入れ屋を通したり、軍から直接雇用されたりして就業していました。彼らはあくまで民間人として扱われたため、軍もきちんとした記録を持たず、約7,000人が病死したと伝えられてはいますが、その実態は明瞭でありません。

 真田山陸軍墓地には、写真のように個人墓碑が建てられていますが、これは真田山陸軍墓地に限られています。建てられた背景やねらいも不明で、墓碑にも、職名と氏名のほかには、死没地や病院の名前以外には記されていません。

 なお、台湾総督府から、台湾で死没した者については、内地に遺骨等は送らず、台湾に埋葬することとされました。そのためこの年以後については、墓碑は存在していません。

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"軍役夫東村安次郎の墓"

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"看病人武内孝太郎の墓"

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"臨時台湾鉄道隊馬丁岩橋嘉吉の墓"

⑤日露戦争の墓碑

⑤-1兵卒の個人墓碑

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"日露戦争での戦没者兵卒の個人墓碑。Fゾーン北側で、東側手前より奥9列ほどに210基前後の兵卒の墓碑が並んでいます"

《説明》

 日露戦争では、無線電信が利用され、戦場では大砲と機関銃あるいは新式火薬などが大量に使用されるなど、近代工業と科学・技術が戦争の行方を決める力となってきました。それに対し、防御体制は遅れ、死傷者数は急増していきます。日本は戦争の期間を通して108万人を動員し、急遽4個師団を増設して合計16個師団として戦いましたが、戦没者は84,435人に上りました。戦争の形も大きく変わっていきます。

 戦場では一つの戦闘で多数の死者があっという間に生じました。大阪に拠点をおいた第4師団は基本的に第2軍に属し、金州から奉天に至るまで、一貫してロシア軍主力との激戦に参加し、一部が第3軍に属して旅順攻略に参加しました。その結果、死没者数は、第2軍で3,490人、第3軍で864人に上りました。

 旧真田山陸軍墓地には、1904年5月26日敢行された南山要塞の攻略戦における死没者墓碑が85基。8月22・23日の旅順蟠龍山での戦闘に関して57基、9月2日遼陽付近の戦闘に関して59基が数えられます。

 第3軍における蟠龍山の戦闘では後備歩兵第4旅団に属する後備歩兵第8聯隊・同第9聯隊そして第38聯隊等から死没者を多数出しています。後備兵とは、予備役までの兵役を終え、帰郷して一家を構えていた者の多い、いわば社会人部隊であり、戦地では後方での任務を課せられる存在でした。日露戦争では、そうした部隊も大きな被害をうけました。

⑤-2 合葬墓碑

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"右から士官・准士官・下士・兵卒の戦病死者合葬墓碑 墓地の西部、最南端。奥に見えているのは真田山小学校。階級によって墓碑の大きさが異なっているのがわかります"

1906年11月には真田山陸軍墓地に、向かって右から士官・准士官・下士・兵卒の階級別に少しずつ小さくなる4基の戦病死者合葬墓が建てられました。

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"歩兵一等卒川口市太郎の墓碑(Fゾーン北側) 明治37年5月南山攻撃戦で戦死したとあります"

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"陸軍中尉宮津隆成の墓(Gゾーン北側)"

南山の戦いで勇戦し戦死したことが、当時大阪で有名な漢学者近藤元粋の撰文で書かれています。
 ⑥ 満州事変に関わった兵士らの墓碑

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"Bゾーン南部の東側(昭和最後、戦没兵士の個人墓碑群。2列にわたって並ぶ)"

《説明》

満州事変の戦没者と旧真田山陸軍墓地 

 旧真田山陸軍墓地には、Bゾーンの南側、西地区を中心に、住所を大阪市や大阪府とする者などで、1931年(昭和6)11月から翌年1月にかけて満州及び朝鮮の各地で戦没した兵士の個人墓碑が13基立っています。ただし、満州での戦闘は政府が定めた満州事変の終了としての1933年5月をこえても実際上は続いており、墓碑も何基か建てられています。最初の13人のうち2人は所属が第77聯隊、一人は78聯隊と記され、聯隊名不記載が10人となっています。

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"故陸軍歩兵上等兵四至本直次郎の墓碑"

側面に昭和七年六月七日満州奉天省臨江県帽子山において匪賊討伐に従軍激戦中胸部頭部に鎗創を受け戦死。享年二十二歳」とあります。

満州事変戦没者の合葬墓碑

 旧真田山陸軍墓地には、満州事変に関わる立派な合葬墓碑がこれら個人墓碑とは別に一基建てられています。その合葬者名等は日露戦争のそれと同じく碑面に表記されず、また合葬墓誌も作成及び所在ともに不詳のままです。ただ推測としては、これは、おそらく先に述べた大阪出身で満州事変に関わる戦没者をまとめて顕彰するものとして建造されたと考えていいでしょう。建造は1934年(昭和9年)9月と記されています。

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満州事変戦病没将兵合葬碑

⑦納骨堂(忠霊堂)

《説明》

 この施設は大阪府仏教会の寄付によって1943年8月に竣工し、陸軍に献納されました。堂内には、1937年7月に始まる日中戦争から1945年9月降伏文書調印によって終結するアジア太平洋戦争まで、大阪に拠点を置いた第4師団管区の戦没者8249人分の分骨が合葬されています。

 全国の陸軍墓地にはこのような施設は44設置されていますが、この真田山陸軍墓地にある納骨堂は最大規模と言っていいでしょう。

 真田山陸軍墓地内の忠霊堂(納骨堂)については、2010~12年度の3カ年にわたって文科省科学研究助成金を得て安置された骨壷や骨箱がすべて調査され、分骨名簿が作成されました。最初に記した8249人分の分骨という数字もこのとき判明したものです。

納骨堂の外観(正面南向き)

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骨壷の配列状態

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棚の配列

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いろいろな納骨容器

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1 .分骨袋(この袋の中に骨を納める木製もしくは陶製の容器が入っている)

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2.陶器製骨壷(蓋を粘着テープで固着していないタイプもあります)

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3.布で包まれた陶器製骨壷 

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4.骨箱(上部の蓋の1箇所に小さな釘を打ち、蓋が水平に旋回できるようにしている。遺骨がなくて写真・位牌などで代用するものも多い。)
 いずれも高さは12センチ程度。

陸軍は、1937年(昭和12)7月の日中戦争開始以来、戦争に関わって死没した軍人・軍属の遺骨は,個人墓を建てず、小さな骨壷に分骨し、忠霊堂あるいは忠霊塔に合葬していく事としていました。戦争になると、今後は多数の死者が出ると予想し、広大な場所と建造費を必要とする個人墓碑ではなく、遺骨を合葬した忠霊堂あるいは忠霊塔の形で行こうと考えたようです。

 

以下は編集中(旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会)

⑧外国兵俘虜の墓碑
(1)清国兵俘虜
(2)ドイツ兵俘虜
⑨下田織之助の墓(最古の墓)
⑩旅団長今井兼利陸軍少将の墓
⑪軍医監堀内利国の墓
⑫南河内郡野田村遺族会建立墓碑
⑬破損墓碑塚
⑭「陸軍省管轄」の標柱

「真田山陸軍墓地維持会」より引用

【見学のご案内・アクセス】
当法人では、真田山旧陸軍墓地の墓地案内の申込を随時承っております。 ご案内のご希望の方は、下記電話番号にお問い合わせ下さい。
また、定期案内会として毎月第4日曜日(1,7,12月は除く)午後1時30分よりNPO法人旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会が実施しております。

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【寄付のお願い】

真田山陸軍墓地維持会は昭和22年に設立して以来、毎年慰霊祭を開催するとともに、史跡とも言うべき当墓地の存在を多くの皆様に知っていただき、二度と悲惨な戦争を起こさない世界の平和を祈念する思想の普及に努力すると共に、多くのボランティアの皆様に支えられ墓地の清掃はじめ環境維持活動を続けてまいりました。

また、材質的に脆い和泉砂岩で作られた多くの墓碑は長い年月の経過と共に、亀裂の進行や表面が剥離する等、憂慮すべき状況にあります。当法人と致しましては、危機に瀕している多くの墓碑の対策を進めるべく、外部研究機関の援助をいただきながら、材質強化・保存方法の研究を進めております。

特に墓碑の修復・保存は緊喫の課題となっており、皆様のご支援を賜りたいと願っております。

【維持会員入会のお申込み】

真田山陸軍墓地維持会は昭和22年に設立して以来、毎年慰霊祭を開催するとともに、史跡とも言うべき当墓地の存在を多くの皆様に知っていただき、二度と悲惨な戦争を起こさない世界の平和を祈念する思想の普及に努力すると共に、多くのボランティアの皆様に支えられ墓地の清掃はじめ環境維持活動を続けてまいりました。 また、材質的に脆い和泉砂岩で作られた多くの墓碑は長い年月の経過と共に、亀裂の進行や表面が剥離する等、憂慮すべき状況にあります。

当法人と致しましては、危機に瀕している多くの墓碑の対策を進めるべく、外部研究機関の援助をいただきながら、材質強化・保存方法の研究を進めております。 特に墓碑の修復・保存は緊喫の課題となっており、皆様のご支援を賜りたいと願っております。

当会の趣旨、目的にご賛同いただき、継続して活動を支えていただける方につきましては、維持会員としての入会をお願いしております。ご賛同いただける方は、お手数ですが申込書フォームに必要事項をお書きいただき、お送り下さいますようお願い申し上げます。

維持会員のお申込みの送付と初年度の維持会費のご入金の確認を以て、受付とさせて頂きます。 年会費は下記銀行口座に振込みをお願いいたします。(次年度以降は7月にご請求をさせていただきます)

当会維持会員規定に基づき、既納の維持会費は退会の場合も返金されません。f:id:ryuzoji358:20230826140318j:imagef:id:ryuzoji358:20230826140323j:image

ネットで「真田山陸軍墓地維持会」を検索し、維持会入会の申し込みまで進むと下記の維持会員入会のお申込みフォームになり、必要事項をご記入頂き送信すれば完了です。

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「お国のために、と散っていった人たちのおかげで今がある。なぜ国は何もしないのか。自分は毎年、手を合わせて感謝するだけでいいのか」

そう語ったのは「真田山陸軍墓地維持会」常務理事の吉岡武さんです。

僕も全く同じ事を思います。

「お国のために、と散っていった人たちのおかげで今がある」

それは今を生きる僕たちが忘れてはならない大切な事です。そしてお国の為に亡くなった人たち、英霊の為にも真実を学び日本国の日本人の道を学び知り、歩まねばなりません。

先の大戦で我が国は初めて戦争に負け、強すぎた為にGHQより自虐史観とプロパガンダを植え付けられました。

但し僕たち日本国民には、それを撥ねつける潜在能力が備わっています。

己が信じた道に命をもかける精神性や使命感は僕たち日本人のDNAに深く組み込まれています。

今はネットの時代です。

マスメディアが流す情報で腑に落ちぬ事があれば調べる事ができます。

お国のために、と散っていった人たちの為にも、真実の歴史を学ぶ事から始めましょう。

このブログを見て一人でも多く周知される事、真田山陸軍墓地維持会会員が一人でも増える事を切に願っています。

また、僕が真田山陸軍墓地を知るきっかけを作ってくれた

喇叭乃妖精按ば鳴生兵挙士(@ahakiAmber )さん

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wata(@t_watabatake )さん

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との相互関係者が増え、そして一人でも多く真田山陸軍墓地を知る方が増える事を願いながら筆を置きます。

長文失礼致しました。

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

RADWIMPS「HINOMARU」に批判、“愛国ソング”は本当に悪なのか?

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✴️2018-06-18 ORICON NEWS 斉藤貴志氏の文を引用)

先ずはRADWIMPSの楽曲「HINOMARU」の歌詞をご覧下さい。

「HINOMARU」
発売日 : 2018年06月06日

作詞 : 野田洋次郎

作曲 : 野田洋次郎

①

風にたなびくあの旗に古(いにしえ)よりはためく旗に
意味もなく懐かしくなりこみ上げるこの気持ちはなに

胸に手をあて見上げれば高鳴る血潮、誇り高く
この身体に流れゆくは気高きこの御国の御霊

さぁいざゆかん 日出づる国の 御名の下に

どれだけ強き風吹けど 遥か高き波がくれど
僕らの燃ゆる御霊は 挫けなどしない

②

胸に優しき母の声 背中に強き父の教え
受け継がれし歴史を手に 恐れるものがあるだろうか

ひと時とて忘れやしない 帰るべきあなたのことを
たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ

さぁいざゆかん 守るべきものが 今はある

どれだけ強き風吹けど 遥か高き波がくれど
僕らの沸(たぎ)る決意は 揺らぎなどしない

どれだけ強き風吹けど 遥か高き波がくれど
僕らの燃ゆる御霊は 挫(くじ)けなどしない

僕らの沸(たぎ)る決意は 揺らぎなどしない

…………………………………………………………

ロックバンドRADWIMPSの楽曲「HINOMARU」が「軍歌のよう」「愛国的だ」と批判を受け、作詞したボーカルの野田洋次郎が「傷ついた人達、すみませんでした」とSNSで謝罪した。古語を用い“さぁいざゆかん 日出づる国の 御名の下に”といった詞は、確かに愛国的とも取れるが、そもそも“愛国”を歌うことは悪なのだろうか? 今後、東京五輪に向けて、日本に誇りを持って鼓舞するような曲も多く発表されるはずだが、それもナショナリズムと断じられるのか? 今回の騒動をきっかけに“愛国ソング”の是非を考察したい。

🟡RADWIMPSの「HINOMARU」に批判、謝罪する必要ないとの声も

RADWIMPSは、大ヒットしたアニメ映画『君の名は。』の主題歌「前前前世」などで知られ、『NHK紅白歌合戦』にも出場した若者に大人気のバンド。「HINOMARU」は6月6日にリリースされた最新シングル「カタルシスト」のカップリングだ。野田はこの曲についてツイッターで、「…日本に生まれた人間として、いつかちゃんと歌にしたいと思っていました。世界の中で、日本は自分達の国のことを声を大にして歌ったりすることが少ない国に感じます」と述べ、「まっすぐに皆さんに届きますように」としていた。

 ところが、日の丸に由来するタイトルや、古語による“気高きこの御国の御霊たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ”などの歌詞から、SNSやネットで「戦時中の愛国歌のよう」「なぜ軍歌のような曲を歌うのか」「失望した」といった批判が殺到。野田はツイッターで、そのような意図がないことを訴えつつ、「結果的に不快な想いをさせてしまった人がいたというのが何より悲しいです」と謝意を表明した。

 それに対し「謝罪する必要はない」との声や、批判を問題視する意見が、ウルフルケイスケ(ウルフルズ)、きゃりーぱみゅぱみゅ、後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)、今井絵理子(元SPEED/参院議員)、タレントのフィフィ、『新世紀エヴァンゲリオン』主題歌などを手掛けた作詞家の及川眠子ら多くのアーティスト、著名人からも上がる事態となった。

🟡前回のW杯でも起こった、J-POP の“愛国”認定

影響力の強いアーティストの曲だけに大論争に発展したが、こういった事態はなにも初めてではない。2014年の『FIFAワールドカップブラジル大会』において、NHKのサッカー番組テーマソングだった椎名林檎の「NIPPON」が、同様の批判を受けた。内容は、“乾杯! 乾杯! いざ出陣いちばん混じりけのない青”といった歌詞が、「軍歌のよう」「愛国的」「選民思想のようだ」というものだ。

 「HINOMARU」も「NIPPON」も歌詞だけを切り取れば、確かに実際の軍歌にも見られるような表現もある。だが、批判の対象になっている古語や歴史的な表現は、そこに込められた純粋な気持ちもあるにせよ、日本をテーマとした曲ではよく用いられる手法だ。伝統的な言葉と最新の音楽を融合させることで、より強い印象を残し、先進性を持たせることができる。椎名林檎が関わった、2016年リオ五輪の閉会式の演出にも感じられた、一種のクールジャパン的な効果を出すことに有効なのだ。「HINOMARU」は穏やかな曲調のためそういった刺激は薄いが、歌詞とメロディ、リズムの組み合わせで、厳かで大きな安らぎを感じさせるとともに、若い人にも受け入れやすい軽やかさも併せ持つ。

🟡曲の背景にある、震災で感じた日本人の不屈の精神

 「HINOMARU」冒頭の“胸に手をあて見上げ”る旗はもちろん日の丸だろうが、その描写は曲調ともあいまって、戦争に駆り立てるような意図は感じられない。むしろ、五輪やワールドカップのようなスポーツのビッグイベントで掲揚される国旗と、それを見上げる人々の中で生まれる自然な気持ちのようにも思える。

 ちなみに、RADWIMPSは東日本大震災の直後に被災地へのメッセージと義援金を募るサイトを開設。熊本地震の際も支援のための楽曲を配信し、収益を寄付している。「HINOMARU」について、「大震災があっても、大津波がきても、台風が襲ってきても、どんなことがあろうと立ち上がって進み続ける日本人の歌」と語った野田。曲の背景には、災害を通して野田が感じたであろう日本人の不屈の精神、日の丸に喚起されてそれを誇りに思う気持ちが発露しただけなのではないか。

 右派や左派といった思想的な意味ではなく、「生まれた国をちゃんと好きでいたい」という国を愛する気持ちから作った“愛国ソング。それは、はたして批判されるべきものなのだろうか。

🟡過去にはあった歌での扇動、SNS全盛の現代で可能なのか?

批判側からは、「作り手にその意図がなくても戦時中のように利用されかねない」との声も上がっている。確かに、過去には軍歌などの娯楽が、思想の誘導や国威の発揚に使われた歴史があるのは事実だ。いまだ戦争での惨禍が尾を引く、海外からの受け取られ方を気にする向きもある。

 ただ、現代はネットやSNSで一般市民からも多様な意見が飛び交う時代。かつてのように、仮に権力側からの発信があったとしても、国民を一律に扇動することは不可能なのではないだろうか。現に「HINOMARU」についても、賛否様々な意見が忌憚なく出ており、物議が醸されている。ある意味この騒動こそが、現代において一方的な思想誘導が難しいことの証左になったと言えるだろう。

🟡表現の幅狭める“愛国ソング”アレルギー、考えるきっかけに

野田は「傷ついた人たち」へ謝罪した。それもまた純粋な気持ちからだったのだろうが、アーティストの表現には賛同も否定も付きものだし、受け取り方次第とも言える。法に触れたり人道に反しているならともかく、様々な捉え方がある中で、炎上鎮静のために謝罪しなければならないという風潮こそ、危険な気もする。

 前述した及川眠子は、「左とか右とか、そういう思想で簡単に縛ってバッシングする。アーティストから言葉を奪うな、と私は思う」などとツイートしたが、当たりさわりのない歌しか世に出せないことになったら、それこそ戦時下の思想統制に近いのではないか。

 2020年の東京五輪では、開会式等ではもちろん“日本”を全面に打ち出し、応援する際には自国に誇りを持って鼓舞するような曲も続々と生まれてくるだろう。日本の選手を応援するうえで、“愛国”に結びつく言葉を避けなくてはいけないなら、自由であるべき表現の幅は狭まるだけ。受け取る側も、歌詞のエッジに反射的に過剰反応をするのではなく、作品を広い視野で冷静に受け止める姿勢が必要だ。それは、エンタテイメントを豊かにするだけでなく、自分が生きる国に対して考えることにも繋がるはずだ。そういう意味で、今回の「HINOMARU」騒動は、“愛国ソング”へのアレルギーを考え直すきっかけとするべきだろう。

(文:斉藤貴志)

✴️追記

僕個人の意見を一言で表すと「愛国万歳」です。そしてこの歌詞は、天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅であると考えます。

天壌無窮とは➡️「天地と共に永遠に続くこと」

天壌無窮の神勅

皇孫(すめみま)に勅(みことのり)して曰(のたま)はく、

「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の國(くに)は、是(これ)、吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たる可(べ)き地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)、宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)り無(な)かるべし」

【口語訳】

天照大御神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に勅して申されるには、

「豊かで瑞々しいあの国は、わが子孫が君主として治めるべき国土です。わが孫よ、行って治めなさい。さあ、出発しなさい。皇室の繁栄は、天地とともに永遠に続き、窮まることがありません。」

天壌無窮こそが今、我が国に一番必要なのに、忘れられている精神であり、それを克服しない限り戦後レジュームからは脱却出来ないと思います。

日本の皆さま、戦後レジュームからいち早く脱却し、この極東アジアで強靭に生き抜く意思を示そうではありませんか。

 


 

 

「SNS保守の会」会員募集中

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SNS保守の会は松丸まこと先生(@seiryukai )が立ち上げたTwitter保守から誕生した政治団体です。SNS保守の会は確かな伝統と輝き続けてきた生命、日本国民の為の政治を推進し、日本の伝統と文化、子供と家族の未来を守ります。

SNS保守の会は、外国人地方参政権、選択的夫婦別姓、同性婚を徹底的に反対いたします。革新左派勢力の自由にはさせません。

【政策】政策一覧

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🟡「外国人地方参政権(住民投票権)を認めません」

地方行政の根幹を揺るがす大きな問題です。日本国の政治は国民固有の権利で有り、外国籍の方々は国籍のある国の政治を司っており日本の政治は日本国民が決定いたします。たとえば中国の人民が大量に地方自治体に移住をした場合、その住民の意思決定は中国人民に侵略されることになります。地域環境が他国化していくことをSNS保守の会は認めません。

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🟡「選択的夫婦別姓を認めません」

強制的な親子別姓になる夫婦別姓制度などは一切認めません。現在の夫婦同姓は婚姻前に両者で決めた“選択的夫婦同姓”であり、「女性が一方的に改姓させられている」との夫婦同姓工作員の主張は完全に戸籍法を解体するための嘘でしか有りません。父母が別姓である以上、子どもの名字は強制的に父母どちらかとは別姓となり、兄弟姉妹に於いても別姓となることが容易に想像できます。父母が子どもの名字でもめた場合は裁判に子どもの名字を決定させるとの主張自体が壊滅的であり、一般的な常識から見ても子どもの福祉に害がある事は解ります。戸籍法を壊してまで子供の福祉と家族の絆に害を及ぼす工作活動に徹底的に戦います。

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🟡「同性婚を認めません」

LGBTQなる同性愛は他人に迷惑を掛けない個人の自由としては否定しません。性的少数者に対しては必要な保護や医療機関の充実などは必要です。だだし性的少数者を大多数として認識させようとする行動は世間一般的な常識に混乱を引き起こしています。同性愛者が婚姻生活を営むことにも批判いたしませんが、戸籍法などを改正しての法律婚は認めません。同性法律婚を強引に推し進める工作員団体が大声で活動しておりますが、それ自体が一般常識から見て迷惑でしかなく、大多数の国民の声を無視する同性婚工作を認めません。国民大多数の意見が尊重されるべきです。

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🟡「防衛力強化を求めます」

2022年8月4日に中国が軍事演習名目で弾道ミサイルを日本の排他的経済水域(EEZ)の内側に着弾させました。これは台湾軍事危機が日本に直接関係することを示しています。ロシアによるウクライナ侵攻に伴い、北朝鮮によるミサイル発射も度重なり、南西諸島への中国共産党軍による威嚇航行も活発化しています。このような日本周辺を取り囲む他国による軍事威嚇には軍事力の均整を急がなければ成りません。力による現状変更を強行する覇権国家への抑止力は軍事力の均衡を保ち日本の言葉に力を与える必要があります。戦争に巻き込まれないための防衛力が国民の生命と財産を守ることになります。

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🟡「保核三原則を求めます」

非核三原則 ( ひかくさんげんそく )とは、核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず」の三原則を指すもので、1967年(昭和42年)12月に内閣総理大臣の佐藤栄作によって表明されたました。55年も前に表明された古い三原則です。現在では、ロシアが核弾頭使用を臭わすなど核の恫喝が発言され、米国を始めとする各国がロシアの核使用を恐れています。日本の近隣諸国は、中国、北朝鮮、ロシアの独裁国家が核を保有しており、日本は核の脅威にさらされています。核兵器保有国に核の恫喝をさせないために日本も先制使用を目的とせず報復可能とする防衛力として「核シェアリングを含む核の保有・核兵器を開発できる軍事技術の開発・安全保障締結国からの核兵器国内持ち込み」を可能とするべきです。侵略国家による核兵器投下をさせないために「保核三原則」を提唱いたします。

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🟡「過去の談話の破棄を求めます」

嘘や誤りの判断から発言された“談話”は是正されるべきで有り、過去の誤りからの判断は総括し新たな時代背景に伴う判断基準を構築するべきです。1993年8月宮沢内閣の河野洋平官房長官(当時)が慰安所の設置・管理,慰安婦の移送について「旧日本軍が直接あるいは間接に関与した」として河野談話が公表されました。1995年8月には村山富市総理大臣が「植民地支配と侵略によって諸国民に多大の損害と苦痛を与えたことを再確認し謝罪」とした村山談話も公表されています。しかし双方共に歴史的根拠を間違えております。慰安所については軍の関与は否定されており、朝鮮半島併合に関しても「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)によって大韓帝国を併合し朝鮮半島を救済したもので有り朝鮮半島の近代化、民主化に大きく貢献しています。戦後レジームから脱却をするためにも、河野談話、村山談話の見直しは必須です。

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🟡「過去の時代背景を主軸とした外国人特権は見直すべき」

「特別永住権を持つ在日韓国・朝鮮人」、朝鮮総連への優遇設置や制度は「通常の永住権やその他の在留資格で日本に居住する一般外国人」には無い優遇措置や特例措置があり韓国籍などその他の外国籍者が日本で刑事罰を受けた場合でも特別永住権者は事実上国法退去処分は免除されています。また通名制度で日本人になりすまし本名を隠蔽しての犯罪もあり、税の減免や、国民の権利である生活保護をも享受しておりながら反日活動に従事する在日外国人までいます。普通に考えてもこの特別扱いは不公平きわまりなく、日本国民と他国民は区別されるべきで有り、外国人は国籍ある自国に生活保証および保護されるべきであると考えます。

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🟡「宗教と政治、外国人団体と政党の癒着を許さない」

日本国憲法では、「信教の自由」と「政教分離」が明示的に規定されております(憲法第20条、第89条)。これによって、国民は信教の自由を保障され、国は特定の宗教団体を支援する活動をしてはならないことになりました。他方、宗教団体側が政治的な活動や選挙にかかわることまで禁止されたわけではないとされています。政治と宗教がなぜ癒着するのかについては、選挙への協力と宗教団体への加護といった両者の利害関係の一致が指摘されていると考えられます。創価学会と公明とはその最たるものでこれが許される以上、宗教と政治の癒着は解決出来ないで有ろうと考えられます。旧民主党は結党時の「基本政策」に、「定住外国人の地方参政権などを早期に実現する」と謳(うた)っており、その中で、外国人参政権の実現は「民団(韓国)との約束である」と放言しております。外国からの影響や干渉を排除するためにも、外国人の政党加入など認めてはなりません。政治資金規正法が外国人の寄付を禁止しているのも同様の趣旨によるものです。国政上、極めて重要な役割を果たしている政党に、わずかな党費を支払うだけで、外国人が自由に入党でき、政党活動を通じて国政や地方政治に自由に参加できるのは、国民主権の原理に反すると云わざるをえません。

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🟡「COVID‑19の責任と補償を中国共産党とWHOに求る」

COVID‑19の発生は、2019年12月1日に新型コロナ感染症の最初の患者が中国の武漢で原因不明の肺炎を発症した日とされていおります。その後、中国共産党との癒着が疑われるWHO(世界保健機関)テドロス事務局長のミスリードにより世界へ大被害が及ぼされました。野生コウモリ由来のウイルスが人獣共通感染によって直接あるいは間接的にヒトに飛び火したものと考えられておりますが、真の祖先ウイルスが何であり、どうやってヒトに飛び火したのかは解明されておりません。人工ウイルス説や陰謀説にはそれなりの背景があるものの、中国共産党が意図的に証拠隠滅したのかごとくに客観的証拠はありません。どちらにせよ中国武漢からの発生は周知の事実です。中国は2003年にも重症急性呼吸器症候群(SARS)を中国南部の広東省を起源とし起こしており、中国共産党の脆弱な防疫体制に情報隠蔽が疫学の危機を創り出していると考えられています。今回の武漢ウイルス(COVID-19)での世界死者数は676万人(2023年2月1日現在)に及んでおり、中国共産党の責任回避は認めてはなりません。中国に二度と感染症を起こさせないためにも徹底した責任追及と世界人類への補償を求めるべきです。

以上の政策にご賛同頂いた方は、

【ご入会をお願いします】

「SNS保守の会」は会費や個人情報登録はありません。「SNS保守の会(@snshoshu )Twitterからご入会頂けます。

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【日本は侵略国家であったのか】田母神俊雄閣下(前防衛省航空幕僚長 空将)

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 アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものである事は意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進める事になるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めた事はない。現在の中国政府 から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守る為に条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。
 この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を 追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させる事であった。 我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって 1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なので ある。
 1928年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢 東)(ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論(黄文雄、 ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け(櫻井よしこ編、文藝 春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937年7月7日の廬 溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われて きた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官 はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦 争(岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。
 我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な 植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932年1月には3 千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5千万人に増加していたのである。満州の人口は 何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからで ある。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35年間で1千3百万人の人口が2千5百万人と約2倍に増えている(朝鮮総督府統計年鑑)。日本統治下の朝鮮も豊 かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々 はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。
 我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また 1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北 帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。 その後8番目が1931年の大阪帝国大学、9番目が1939年の名古屋帝 国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校26期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1期後輩には金錫源(キンソグォン)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しい事により天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍 士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオキン)もいる。

 李王朝の最後の殿下である李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校の29期の卒業生である。李垠殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日本に来られる事になった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせる事はなかったであろう。因みに宮内省はお二人の為に1930年に新居を建設した。 現在の赤坂プリンスホテル別館である。 また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀殿下の弟君である溥傑殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。

 これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っている事に気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人の為に教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れる事もなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせる事など考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じ事である。一方日本は第2次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって 仲良く暮らす事を夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的な事である。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば 当時日本が主張していたとおりの世界になっている。
 時間は遡るが、清国は1900年の義和団事件の事後処理を迫られ1901年に我が国を含む11カ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2600 名の兵を置 いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。また1915 年は袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、 いわゆる対華21箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵 略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一 般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べる事になる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編(渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めた事はない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901年から置かれる事になった北京の日本軍は、36年後の廬溝橋事件の時でさえ5600名にしかなっていない「廬 溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原 喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針で あり、それは今も昔も変わらない。
 さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略した為に、遂に日米戦争に突入し3百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎える事になった、日本は取り返しの付かない過ちを犯した、という人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込む為に、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であった事が判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書 がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。 膨大な文書であるが、月刊正論平成18年5月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940年から 1948年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1回限りの暗号書を使用していた為アメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、 日米戦争の最中である1943年から解読作業を開始した。そしてなんと37年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980年に至って 解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であった為にアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995年に機密が解除され一般に公開される事になった。これによれば1933年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトであった。 ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモー ゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルン の工作を受け、戦闘機100機からなるフライングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃 に先立つ1ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、 隠密に航空攻撃を開始していたのである。
 ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になった為、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避ける事が出来たのだろうか。 日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避ける事が出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、 アメリカから第2,第3の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。 強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されるこ とに甘んじなければならない。
 さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支 配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そ して大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時、大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、二百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営む事が出来るのだ。
 一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」等という人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。 しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。 現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は60年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実効支配が続いている。

 東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法 もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国 の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は20年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものである事が望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。

 自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止すると共に外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこの事が我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人達の多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接 見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だった等というのは正に濡れ衣である。
 日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。 私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自 分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいこと であることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本 の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の 一途を辿るのみである。

「オレを戦犯にしろ」石原莞爾 最期の日々

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関東軍作戦参謀として満洲事変を引き起こす一方、東条英機との確執で現役から退かされた石原莞爾。終戦間際にはいち早く東久邇宮内閣成立を画策し、戦犯から外された東京裁判では、尋問で米側を一喝する気概も見せた。

『世界最終戦論』で知られる石原は、終戦を郷里の山形県鶴岡で迎えた。満洲事変の後、参謀本部時代には中国戦線の不拡大方針を唱え、1937年9月には参謀副長として関東軍へ左遷される。が、上官である参謀長の東条とはことごとく対立した。40年7月には、第2次近衛内閣で陸相に就いた東条が進める「北守南進」に公然と反対し、太平洋戦争開戦前の41年3月、石原は予備役へと追いやられる。まもなく職を得た立命館大学も、東条の圧力により同年秋に辞職。以後は鶴岡で借家住まい、向かいの家から毎日、特別高等警察(特高)に監視されながらも、わずか月300円の恩給生活を送っていた。

日本の敗戦を知らされたのは、玉音放送2日前の45年8月13日朝。千葉聯隊区戦車聯隊長の吉住菊治少佐からの報告だった。石原と同郷の吉住はその前日、市ヶ谷台の大本営で「ポツダム宣言受諾」を洩れ聞くと、直ちに夜行列車を乗り継ぎ、石原のもとへ。報告ののち、今後の指示を仰いでいる。

 後述するように石原は、前年9月、東久邇宮稔彦陸軍大将と「喧嘩別れ」していた。が、吉住の報に接し、時を得たとばかりに、

〈直ちに東久邇宮内閣をつくるよう、大本営に伝令してくれ〉

 そう告げている。吉住の手記『石原莞爾の遺言』の中には、石原のメッセージとして次の記述がある。

〈この敗戦は決して落胆するに及ばぬ。何となれば数年後に人類は、世界の最終戦によつて、始めて戦争を脱皮し、永久平和が実現する。敗戦により、軍備をすてた日本は、今こそ始めて世界に先んじて、人類次代の文化を創造し、全世界の模範となるべき大維新を断行する運命を与えられたのだ。しかしこの世界の大勢にたいする見透しと、新日本の向うべき目標をハツキリつかみ得ない者、特に血気の連中は、終戦のお詔勅が降るとドコまでも竹槍式の玉砕を叫んで反乱を起すだろうが、お前はその時、オレの世界最終戦の理論を説き、反乱軍の鎮撫に命をささげよ。それが軍人としての最後のお奉公だ〉(原文ママ)

石原はそう諭しながら、

〈アメリカとロシアとの決戦には、必ず我国民が強制的に狩り出されるから、国民は全力をあげて断じて反対せよ〉(同、原文ママ)

 とも口にしていた。

 吉住は東京へ引き返すと、直ちに大本営に駆け込んで石原の構想を報告。作戦課長・服部卓四郎から石原の「子分」である参謀次長・河辺虎四郎に伝わったとみられ、河辺から木戸幸一内大臣の耳に入ると、木戸に代わり秘書官長の松平康昌が14日午後、麻布の家を空襲で爆撃され川崎の別荘に逃れていた東久邇宮と面談。和平交渉の経過やポツダム宣言受諾が御前会議で昭和天皇の聖断により決定された状況を説明したのち、こう伝えている。

〈木戸内大臣の考えでは鈴木(注・貫太郎)首相は近く総辞職をするかも知れない。その後任として、軍部を抑えて行ける自信のある人が重臣の中にはないから、この難局にあたって総理の大任を受ける人はないだろう。その時には、東久邇宮に総理になってもらわなければならないかも知れない〉(『東久邇日記 日本激動期の秘録』)

 ところが東久邇宮は、

〈私は政治家ではない。また、皇族で軍人という関係で、政治に干与することを禁じられていたので、政治に関してはなんらの経験もない。私は、皇族は政治に干与しない方がよいと考えている〉(同)

と、いったんは固辞。それでも、石原の盟友で陸大同期の阿南惟幾陸相が自決したと聞かされると、心境は一変した。15日夜、再び松平が天皇の内意を伝えに川崎の別荘を訪れた。

〈阿南陸軍大臣が自決した結果、鈴木首相は本日内閣総辞職を決し、各大臣の辞表を陛下に奉呈した。(中略)天皇陛下は時局を非常に心配され、陛下のご内意は、鈴木内閣の後継を東久邇宮になさるお考えである〉(同)

 これに宮は、

〈この危機を突破しようという人がなく、また一般情勢がそんなに危険ならば考え直しましょう〉(同)

そう応諾している。

「大不忠の臣だ」と
 東久邇宮は16日に参内し、組閣の大命を拝した。緒方竹虎を書記官長(官房長官)に、朝日新聞論説委員だった太田照彦を首相秘書官とし、組閣本部を赤坂離宮に設置。こうして石原の念願だった「宮様内閣」は、ようやく実現をみたのである。

 事ここに至るまで“生みの親”たる石原は、無念の日々を重ねてきた。実は、まさしくこれが「三度目の正直」だったのだ。

 最初は1936年、二・二六事件の直後である。当時、陸軍では皇道派と統制派とが対立、これを一つにまとめられるのは東久邇宮中将しかいないと考えた石原は、反乱軍に東久邇宮首相案を示すが反対されてしまい、事件が収束すると川島義之陸相に「進退伺い」を提出、高田馬場の自宅に引き籠っている。

 2度目は44年9月26日。ドテラに下駄履きで鶴岡から上京した石原を『東久邇日記』はこう記している。

〈午前九時、石原莞爾来たる。石原の話、次のごとし。「現在の日本は軍人、官吏の横暴、腐敗その極に達し、中央はもちろん、地方の末端に行くほどはなはだしく(中略)大東亜戦争解決の第一歩は、重慶(注・蒋介石)との和平にある。これがためには、小磯内閣ではダメである。故に小磯内閣を倒し、東久邇宮内閣を組織し、三笠宮を支那派遣総軍司令官として、重慶と和平しなければならない。そうしなければ日本は滅亡するだろう」〉

石原はその3日前、前出の太田や、のちに東久邇宮内閣で内閣参与に就く朝日新聞の田村真作と協議。小磯国昭を副首相にして宮を説得する肚を固め、26日の面談に臨んでいた。日記によると石原は、

〈あなたは陛下に、小磯をやめさせて、あなたが内閣を組織するよう申し上げなさい〉

 と、いきなり直球を投げている。驚いた宮は、

〈私はそんなヒットラーやムッソリーニみたいなことはできない〉

 そう返したのだが、石原はなおも、

〈いま国家が滅亡するかどうかという時に、皇族は重大な責任がある。もしあなたがいやというなら、あなたは日本はじまって以来の大不忠の臣である〉

などと畳みかける。

〈たとえ大不忠の臣となっても、私はヒットラーのようなことはできない〉

 重ねて拒む宮。二人は33年、仙台で「東久邇宮第2師団長」「石原歩兵第4連隊長」という上官と部下という間柄であったのだが、固辞し続ける宮に石原はしびれを切らし、

〈それでは、私はもう一生あなたのような人にはお目にかからない〉

 そう言い捨てて辞去。東久邇宮は同日の日記に、

〈私に向って「不忠の臣」などといったのは、石原ぐらいのものである〉

 と記している。そうした過程をへて、石原の宿願は成就したわけである。

特高も教えを請う
 8月16日、参内を終えた東久邇宮のもと、書記官長の緒方と首相秘書官の太田を中心に組閣が始まった。二人は阿南陸相の後任に石原を推し、同日午後3時頃、隣家の家主に電話を入れて呼び出す。太田は就任を要請するが、石原は「膀胱ガンの持病でつとまらない」と謝絶。あわせて閣僚人事案を請う太田に、石原はこう告げている。

〈外相には吉田茂、蔵相は津島留任、運輸は小日山直登、内務大臣は三上卓(五・一五事件の首謀者)。内閣顧問に朝日の常務鈴木文四郎、キリスト教徒の賀川豊彦、同盟通信の松本重治、作家の大佛次郎らを〉

 ちょうどこの日の午後、京都第16師団長時代の部下だった久保友雄が石原を訪ねていた。電話の呼び出しから戻ってきた石原の様子を、久保は後年『敗戦時の思い出』という手記でこう記している。

〈東久邇宮内閣に入閣の話だったが、お断わりしてきた、と例によって淡々とした口ぶりだった〉

 また吉住が敗戦を伝えに来た翌日の14日朝、今度は山形県警察部特高課長の堀田政孝が石原を訪ねている。

 堀田は同年春、内務省より「石原逮捕」を命じられて県の特高課長として赴任し、4カ月が過ぎていた。本人の手記『木乃伊(みいら)取りが木乃伊に』では、すでに11日夜には無条件降伏決定の電報が県警に届いており、警察部長から、

〈近所には海軍の特攻隊基地や陸軍部隊がいる。これらが、石原サンを取りまいて蹶起でもしたら大変だ〉

と言われ、夜中に車で鶴岡へ向かったとある。ところが、カスリの浴衣で現れた石原に、

〈戦さに敗けたんだろう〉

 と先手を打たれてしまう。そこで堀田が敗戦後の日本がとるべき処置と「見透し」を訊くと、石原はこう答えたという。

〈国体護持の絶対肝要なこと、精神力で立ち上るべきこと、パンパンや占領で一応事態は混乱するであろうこと、併し悲観するには及ばぬ、その敗戦のドン底から立ち上ることによって新日本が生れること、米ソは必ず衝突すること〉

 あまりに明快な説明に感心した堀田は、この内容をつぶさに報告。本省はガリ版刷りで全国の特高に配布した。手記には、こうある。

〈このガリ版刷りで、特高関係は勿論全国府県当局が落着きを得たといつても過言ではないでしょう〉
陛下に望まれても
 一方、石原に陸相就任を断わられた東久邇宮は8月19日、内閣参与の田村と石原の盟友・木村武雄を鶴岡に遣わし、説得を試みた。急いだ理由は昭和天皇が、

〈石原莞爾を内閣顧問に〉(『木戸幸一日記』)と望まれたからである。田村は、

〈東久邇宮さまがお召しです。(副総理格で無任所大臣に就いた)近衛(文麿)さんも会いたがっているということです〉

 と懇願するのだが、石原は近衛の名を聞いた途端、顔色を変えた。近衛には37年夏に石原が設定した蒋介石との和睦会談を、さらに41年にはルーズベルトとのハワイ会談をそれぞれ直前でキャンセルされるなど2度にわたって裏切られており、大きな不信感を抱いていたのだ。

石原は毒気を含んで、こう口にした。

〈人にものを聞きたいというのであれば、聞きたい方が来るのが道というものだ。近衛は家柄かも知れないが、国事の相談には階級はない。その上こちらは病いでもあり、年齢から言えば私が先輩である。(中略)しかし殿下(東久邇宮)に対しては自ら臣子の道があり、参らねばならぬと思っている。何分にもこの状態なので御無礼をしている〉

 これを受け、さっそく東京までの切符を手配しようとした田村をよそに、

〈わしも敗戦日本の一国民だ。郵便車に藁を敷いてもらい座って行こう〉

 結局、石原が運輸相に推薦した小日山直登の計らいで2等車に乗って上京。前年9月に喧嘩別れした東久邇宮と8月23日朝、首相官邸で対面した。

だが、今度は宮が石原に顧問就任を断わられてしまう。

 再び『東久邇日記』によれば、

〈「(略)官僚の息がかかることは絶対に避ける決心で、純民間人として働きたいから、内閣顧問のような地位は、真っ平ご免である」と、きっぱり断わった〉

 とあり、最後は東久邇宮から石原に「大不忠の臣だ」と投げ返している。

 この在京中、石原は「読売報知」「毎日新聞」のインタビューを受けている。読売報知は8月28日付で1面の半分を割き、13段の大囲みで大々的に報道。まず、敗戦の原因を問われた石原は、大略以下のように答えている。

〈最大の原因は国民道徳の驚くべき低下。道義、知性、勇気がなかったためだ。敗因の根本的探求を軍事・外交・科学・政治・経済・産業・道義などあらゆる角度から断行すべきである〉

 また、国民の今後の指標を聞かれると、

〈先ず総懺悔すること。大都市生活を諦め、この際速やかに大都会を解体する。そして徹底した簡素生活を断行する。大体今日の大都市は資本主義の親玉アメリカの模倣であり、自由主義経済と共に膨れ上がって発達したものだ。皮肉にも本家アメリカの爆撃で大体潰滅した。今後は幕末当時の領土の上に、その頃の二倍以上の民族が生きてゆかねばならぬ〉

 戦後政治の動向については、

〈首相宮殿下には、国民に対して建設的な言論結社の自由を要望している。官僚専制の打倒は目下の急務。これから世界一の民主主義国家になるべきだ〉

 さらには、自らが対峙してきた特高警察の廃止を訴えつつ、

〈政治憲兵も同然。思想、信仰は元来官憲が取締るべきではない。これは国民自身の取締によるべきだ。かかることの出来ぬ民族は自主独立なしえない〉

 そう喝破していたのだ。

 かように時代の転換期を“プロデュース”しながらも、石原の膀胱ガンは悪化、46年2月末には東京・飯田橋の逓信病院に入院・手術する。同年8月の退院まで約6カ月を過ごす間に、堀を隔てた市ヶ谷台の陸軍省大講堂では東京裁判が始まった。石原の部屋にも、のべ13人の検事や法務官が取調べにやってきた。

 石原は当初、29人の戦犯に名を連ねており、最初の尋問に現れたのは第12回執行委員会前日の3月13日、米軍のホナディ法務官だった。その後、4月8日の参与検事会議で真崎甚三郎、田村浩とともに戦犯から除外されたものの、引き続き板垣征四郎の証人として尋問を強いられている。

「オレを戦犯にしろ」
 4月20日、米国の検事が突然、病室のドアを蹴って現れた。傍らには日系の通訳官。ベッドに横たわる石原に、

「証人尋問を開始する。お前は石原か?」

 そう質してきたので、

「ここには石原は一人しかいない」

 と惚(とぼ)けながら、

「オレは戦犯だ。なぜ逮捕しないか。裁判になったら何もかもぶちまけてやる。いいか。広島と長崎に原爆を落としたトルーマンこそ世界一級の戦犯だ!」

 などと、激しい剣幕で迫った。病人相手の尋問は容赦なく、板垣征四郎と橋本欣五郎との関係を訊いた検事は、石原が知らないと言うと、

「また明日くる。二人の関係をよく思い出して、明日返事できるようにしておけ」

 そう言い残し、ドアを開けて去ろうとした。すると、石原はベッドの中から一喝、

「待て! 今の話はなんだ! 知らないものを思い出せとはなんだ!」

 大声で怒鳴り上げると、驚いた検事は小さく謝って去って行ったという。

 そして翌日、取調べは軍人の法務官に替わり、出し抜けに石原は、

「私が参謀総長だったら日本は絶対に敗けなかった。君は敗戦国だから我々の膝下にも及びつかないだろう」

 と“先制攻撃”に出た。

「東条と意見が対立していた?」

 法務官がそう尋ねると石原は、

「違う。意見のない者と意見の対立などない」

 と、一言のもとに切り捨て、挙句、

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「いいか、君のところのペリーこそ戦争犯罪人だ。あの世からペリーを連れてこい!」

 さらに法務官が、

「今度の戦犯の中で一体誰が第一級と思われるか?」

 と質すと、石原は声高に、

「それはトルーマンだ!」

 そう言い放ち、唖然とする法務官に石原は、見舞い客から貰った一枚のビラを取り出して見せながら、

「ここに、米国大統領就任に臨み、日本国民に告ぐとある。ルーズベルトが死んだ直後だから5月頃だ。これはアメリカ軍が飛行機から撒いた物だ。ビラには、もし日本国民が銃後において軍人と共に戦争に協力するならば、老人、子供、婦女子を問わず全部爆殺する、とトルーマンの名で書いている。知っているか」

 と突きつけた。首をかしげる法務官に、

「これは国際法違反だ。立派な証拠だ。B29で非戦闘員を爆撃し、広島と長崎に原爆を落としたではないか。オレは東京裁判で、これを話してやるから、オレを戦犯にしろ」

 そう一気にまくし立てたのである――。

 以上は、石原の主宰した「東亜連盟」東北婦人部長で、当時看病していた渕上千津から直に聞き取ったやり取りである。

 石原はその後、郷里に戻って療養につとめながらも、47年5月の東京裁判酒田臨時法廷に証人として出廷。49年春には肺炎を患い、病状はいっそう悪化。同年8月15日、60年の生涯を閉じている。

 没後72年、石原が嘆いた「国民道徳の低下」は、果たしていま改善されているのだろうか。