幕末の熊本。
そこには二つの潮流がありました。改革を志す肥後実学党、そして尊皇の志に燃える肥後勤皇党。
実学党には長岡是容・横井小楠・元田永孚・下津久馬・荻昌国らが名を連ね、藩政改革に心血を注ぎました。
一方、勤皇党には宮部鼎蔵・轟武兵衛・高木元右衛門・佐々淳次郎らが集い、志を天に掲げました。
その勤皇党の中から、明治新政府への強い不満を抱いた者たちが立ち上がります。
彼らこそが肥後敬神党。
党首は、新開大神宮の神職・太田黒伴雄。

彼らが起こしたのが、歴史に刻まれる『神風連の変』でした。
三島由紀夫さんは、この敬神党に深い関心を寄せ、小説『奔馬』(『豊饒の海』第二巻)でその魂の軌跡を描いています。

。。。。。。。。。。。。。
⚪️『神風連の変 天に誓い、地に散った志』
明治九年、太田黒伴雄を首領とする神風連の志士たちは熊本鎮台を襲撃しました。




神を敬い、天皇を尊ぶ、その信念ゆえに彼らは自らを『敬神党』と称しましたが、世は彼らを『神風連』と呼びました。
この事変を理解するには、単なる暴発としてではなく、肥後勤皇党の精神的な系譜の上に見なければなりません。
その源流には、思想家・林桜園、そしてその師・永瀬真幸、さらにその師である*高本紫溟(たかもとしめい)の存在があります。
*高本紫溟Wikipedia⬇️
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%AC%E7%B4%AB%E6%BA%9F
紫溟は阿蘇山にこもり、漢学・国学・神道・仏教・天文・地理などあらゆる学問を修め、「一度目を経れば、いまだかって忘れず」と言われた博学の士でした。
彼が広めた精神は、やがて桜園に受け継がれ、桜園の教えが宮部鼎蔵、太田黒伴雄らの魂を育てました。
⚪️『神を信じ、己を律した人々』
桜園は「神事は本なり、人事は末なり」と説きました。
この世のすべては神の働きによる。だからこそ人は、誠をもって祈り、心を尽くして行動しなければならない――。
神風連の志士たちは、この教えを胸に刻みました。
封建の世が終わり、王政復古によって天皇の御代が訪れたとき、彼らは日本が神道に立ち返る政治を夢見ました。
しかし、現実は違いました。
新政府は欧化政策を推し進め、古き日本の心を次々と切り捨てていきました。
忠義も孝行も忘れられ、魂のよりどころは失われていきました。
彼らは、そうした時代の流れを「神を離れた世」として深く憂いたのです。
⚪️『宇気比(うけい) 神に問うた真実の時』
『神風連の変』は「宇気比の戦い」とも呼ばれます。
宇気比とは、神の御心を伺う神聖な儀式です。
『古事記』にもその起源が記されています。
⚪️神主が神命を問う。
⚪️身を祓い、心を清める。
⚪️夢に託して神の訓を受ける。
明治七年、八年と新開大神宮で宇気比が行われましたが、「時ならず」との神託により、行動は許されませんでした。
しかし、明治九年。廃刀令と断髪令が下り、武士の誇りが奪われたその年、ついに「許し」が下りました。
そして十月二十三日の夜。
太田黒伴雄を筆頭に百七十余名の志士が立ち上がります。
刀と槍を手に、火砲を備えた近代軍に挑みました。
勝つための戦ではありません。
「いかに生きるか」ではなく、「いかに死ぬか」を問う、信念の戦いでした。
⚪️『敬神の心を今に問う』
討死二十七名、自刃八十八名。
彼らは狂信ではなく、信仰に殉じ、義に殉じ、日本の魂に殉じた人々でした。
私たちは、『神風連の変』という「事変」よりも、その心に耳を傾けるべきです。
いまの日本を見渡せば、物質の豊かさの裏で、心の貧しさが目立ちます。
利を追い、己を優先し、義や誠を軽んじる風潮。
その時こそ思い出したいのです。
この国の礎には、天を敬い、人を思う心、『誠の心』があったということを。
古来から日本人が信じた「神ながらの道(かんながらのみち)」。これは単なる宗教観ではなく、日本人の生き方そのものを示す概念です。
その光は、時を超えて、私たちの心の奥に今も静かに灯っているのです。






