幕末期の熊本は実学党と勤皇党に大きく分けられます。少し極端に現在の表現で言えば実学党が左派、勤王党が、右派になります。
🔗昨今言われているリベラル派は上記には当てはまりません。反日でリベラルなんて言葉を使っては世界の笑いもの🔗
皆さんが知っている新風連の乱を起こしたのは、肥後 勤王党よりも更に右派であった敬神党を中心としたメンバーでした。
三島由紀夫は熊本の敬神党に興味があり、熊本の新風連記念館には何度か訪問しました。
敬神党の首謀者でもあった太田黒伴雄を紹介します。
下記全てコピペです。
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太田黒 伴雄(おおたぐろ ともお、天保6年(1835年) - 明治9年(1876年)10月25日)は、日本の士族。神風連の乱の首領、指導者。幼名は鉄兵衛。
1835年(天保6年)、肥後国飯田熊助の三男として熊本被分町(現・熊本市)に生まれた。大野家に養子に入り大野鉄兵衛と称した。その後、江戸にて朱子学・陽明学を学ぶ。帰藩後、林桜園より国学と神道の手ほどきを受け、尊王攘夷の思想を深めた。
新開大神宮の太田黒伊勢守に入婿し、姓名を太田黒伴雄と改め、神官となる。
立派で大柄な太田黒は、宮部鼎蔵、轟武兵衛ら勤王党先輩たちからも信頼され対等に扱われていた。
1876年(明治9年)、明治政府の出した廃刀令に激怒して加屋霽堅、斎藤求三郎ら、約170名とともに、神風連の乱を起こすが銃弾を受けて重傷を負い、法華坂で義弟の大野昇雄の介錯により果てる。享年42。1924年(大正13年)、正五位を贈られた。
和歌
⚪おきて祈りふしてぞ思う一筋は 神そ知るらむ我が国のため
⚪天照神をいはひて国安く 民おさまれと世を祈るかな
⚪かぎりなきめぐみにおのが百年の よはひを捨てて君に報いむ
以上は熊本HP引用