僕は乃木大将が大好きで東京在住時は事ある毎に乃木神社、旧乃木邸に足を運びました。
司馬遼太郎さんは、乃木大将を愚将と言っていましたが、僕は断固として異を唱えます。
*司馬遼太郎さんの本は全て読みました。大変お世話になった小説家です、
ロシア旅順艦隊とバルチック艦隊が合流すれば日本は万に一つも勝ち目はありませんでした。バルチック艦隊が来る前にロシア旅順艦隊を一日でも早く壊滅させる必要がありました。
二百三高地のロシア旅順要塞は、コンクリート製の複数の半永久堡塁、永久砲台、角面堡、そしてそれらを繋ぐ塹壕から構成される堅固な防御線と、その外側の前進陣地を組み合わせた多重防御構造を持つ要塞でした。
日本軍(乃木希典第三軍司令官)は、初めてそんな近代的要塞に挑んだ訳ですから、当初の肉弾戦は、そう言う意味でも仕方なかった、そう考えています。
当初の肉弾戦について批判出来るのは、現在の近代戦目線だからだと思います。
現に多くの兵士は『乃木大将の為だったら命を懸けられる』と言っていたそうです⬇️
https://m.youtube.com/shorts/G2e1DFrmT0w?fbclid=IwRlRTSANAPctleHRuA2FlbQIxMQABHurUh3HxqB5K30jMPjAPFkXZuZOxbRPQeInD_TuFfOntsV5wmQNakF4UxTtE_aem_vMZxZjtqQjFJM6bNuzy5Qw
前置きが長くなりましたが、乃木大将の『人となり』を知って頂きたいと思い、学習院時代の乃木大将逸話(乃木神社資料)を下記にて紹介します。
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明治45年(1912)7月30日明治天皇が崩御せられ御大葬の大正元年9月13日御霊轜が宮城を出発する号砲が打たれた午後8時過ぎに乃木希典大将と妻静子夫人は先帝に殉じて自刃を遂げられました。
大正8年(1919)には乃木神社創立の許可がくだり大正12年(1923)11月1日鎮座祭が斎行されました。
乃木大将の御神徳は「忠誠」という語に表わされます。
乃木大将の自らに対し、父母に対し、そして国に対して、誠を貫かれたという御事績は、我々日本人が大切にしてきた精神を表しています。
乃木大将学習院院長時代の話しを乃木神社の資料を参考に紹介します。
「学習院院長時代」
乃木希典大将には2人の息子がいましたが2人共に日露戦争(南山、旅順)で亡くしています。
明治天皇はそのような乃木将軍の心を察し、
「乃木も2人の息子を亡くして寂しかろうから沢山の子供を預けよう」
と、明治40年(1907)に学習院院長をお任せになりました。
この時、乃木大将は59歳。
乃木大将は将来この国を背負っていく子供たちが、贅沢や我儘をしている風潮を心配されている明治天皇の御心をよく理解し『質実剛健』をモットーとした体当たりの教育を行ないました。
乃木学習院院長時代には昭和天皇をはじめ多くの皇族の方々が在学されています。
【 学習院院長の一日の様子 】
乃木学院院長の一日は生徒や職員と共に朝は生徒よりも早く4時半頃に起床。
塩で歯を磨き、顔、手足、体を洗う。
軍人としての心掛けから余分な水は決して使わない、それが済むと、寄宿舎6寮を巡視する。
初夏から晩秋には、それに草刈が加わり、終わって自室に戻り読書(音読)する。
午前7時に生徒と共に朝食をし、親しく声を掛け、姿勢の悪い者には注意を与える。
7時半登校、8時の授業開始後は公務のかたわら各教室を巡視する。
一教室につき、始めから終わりまでの約1時間、後ろに厳然と立って授業を傍聴し、生徒の勉強ぶりを観察する。昼食は職員と共に職員食堂でとる。
午後には武課、体操が行われ、運動場に立って生徒を注視する。
放課後には剣道が行われ、これは何よりも楽しみとして自ら生徒に稽古をつける。
5時に生徒と共に夕食。
6時から10時までの生徒の自習時間に自室で読書(音読)。
10時の消灯ラッパと共に生徒と同じく床に就く。
以上が、学習院院長、乃木稀典の一日の生活です。
乃木大将は、明治40年1月31日から大正元年9月13日までの5年間半、学習院院長(第10代)を務められました。
その間、教育者として実践躬行の範を示し続けられたのです。
院長就任の翌41年秋、東京の目白に新校舎が建てられ、乃木院長は、立派な院長官舎には入らず中等科・高等科の全生徒と共に寄宿舎に入り、彼らと起居を共にしました。
酒豪かつ愛煙家であった乃木院長は、一日の務めを終えてから自室で軽く一杯やっても構わないのですが、寮生活中は自制して禁酒禁煙を守りました。
院長が教室で直接生徒を指導することはほとんどないからこそ、寮に住み込み、生徒に接する時間をできる限り多くして、顔と氏名を一人残らず覚えるのみならず、一人ひとりの性格や気質をしることにもつとめました。
剣道、水泳合宿、遠足等いつも生徒と行動を共にしました。
四谷には初等科、赤坂には女子部があって、週に何度かそちらに出向いて公務を統率し、赤坂(乃木坂)の自宅に帰るのは月に1~2度程だったようです。
この生活が殉死の時まで続いたのです。
乃木院長のこうした日常が、年少多感な生徒に多大な感化を及ぼさずにはおきません。
学習院の生徒は当時、華族の子弟が大半でしたから、贅沢に甘やかされて育った者が少なくありませんでした。
寮生活を不自由・不便に思う者もいましたが、明治天皇の信任も厚い天下の老名将(在任時59~64歳)が生徒と同じ生活をしているので、不平不満を言い様もなく、在任1か月もたたないうちに生徒は、乃木院長を慈父のように慕い敬い、皆「うちのおやじ」といい合うようになりました。
乃木大将は、郷里の友人に宛てた手紙の中でこう詠んでいます。
“寄宿舎で楽しきことを数ふれば撃剣、音読、朝飯の味”
この時から乃木希典将軍は明治天皇に殉じて自刃を考えていたと思います。
乃木大将は大正元年に明治天皇の後を追い殉死される2日前に、当時11歳で皇太子となられた裕仁親王(昭和天皇)を訪ねられました。そして2冊の本を風呂敷から取り出し手渡しました。
その内の1冊が、山鹿素行の*『中朝事実』でした。
*『中朝事実』は、江戸時代初期の儒学者である山鹿素行が著した歴史書で、この書は当時の日本では中国こそが優れているとする「中華思想」が流行していたことに対し、日本こそが「中朝(中華)」であると論じ、日本の歴史・文化・政治的な優位性を主張しました。素行は特に、日本が万世一系の天皇を戴き、 君臣の義が守られている点を、頻繁に王朝が交代し 易姓革命を起こしていた当時の清朝と対比して強調しました。
乃木大将は子供に対し、祖先に対し、そして国に対して『國體護持』と『神道精神』を絶対的な『誠』と考えられ、そしてそれを実践されました。